2025年4月21日月曜日

懐旧談(1960年前後の高校時代)


 今朝は新聞休刊日だった。こんな時、私の唯一の頼りはTBSの『森本毅郎スタンバイ!』である。八時台の話題では、名だたる「短大」が次々姿を消し、短大生の数が現在は最盛期の六分の1程度に減って来ていることを扱っていた。一昔前の時勢と今日では人々の価値観も変わって来たことを感じないわけには行かなかった。

 そのことがきっかけで、久しぶりに家内と高校時代の話をした。私たちは三学年違うが、同じ高校なのでお互いに共通の教師を知っている。しかも大抵、教師のあだ名で話が通ずるのだ。そんな私にとって、高校時代はまさに『春爛漫』の時代だった。

 元々、その高校には、中学2年生の時の担任は、進学は無理だと宣った。保護者懇談会を終えて帰ってきた母はその担任の言にぷりぷり怒って帰って来た。母としては息子の学力がそのような判定をいただいたことが不満だったのだろう。それは私に対するぼやきでもあった。

 そんな私がその高校に進学できたのだから、それだけでももって名誉とすべきだろう。だから、英語の時間、私の前の席に座っていた同級生は同じ姓なのだが、隣町から通って来た人だったが、恐ろしくその英語の発音が流暢で滑らかであった。私は嫌が上にもとんでもないところに迷い込んできたものだわいと思った。しかし、中間テストの折り、成績発表があったら、何と私がその人より好成績で、しかもクラスでトップだった記憶がある。

 それは英語だけに留まらず、化学でも好成績であり、苦手の数学も高評価をいただいた。途端に自信を持ち、あくなき好奇心に任せ、様々な本を読んでいった。高校の図書館だけで満足せず、市立の図書館、町の公会所などの図書など手当たり次第手にした。その頃ポーリングというアメリカ人だと思うが、ノーベル化学賞を受賞したと記憶するが、その彼の化学書があった。湯川秀樹の『理論物理学講話』という本も見つけた。

 高校は『東高』でなく『短付(たんぷ)』がふさわしいと中学の担任が宣ったにしてはエライ飛躍ぶりであった。とうとう一年の担任から、私の大学進学の相談のおり、彼の口から、京大理学部は、現役では無理だが、まあ、一年浪人すれば受かるだろうと、望外のお墨付きをいただいた。

 その教師の口調、態度を思い浮かべながら、この話をしたら、それ『コロンブス』でしょう、と家内は言った。私は、目を剥き出すようにして喋るその先生の姿を思い出しながら、どうしてコロンブスと言うのか、と聞いたら、「だって、顔が似ているもの」と言った。そう言えば、英語リーダーの教師は『暁月の君』だと、結婚してから家内を通して知った。「垢つきの君」と言って、いつも同じワイシャツを着ていらっしゃったからだと言った。さすが女生徒は観察が鋭いと思った。

 もう一人の英文法の教師は『てんこち』と在学当時から互いの間で呼び合っていた。口の両側に髭がピンと伸びていて、ヘアースタイルも斬新そのものであった。この先生はユーモアある教師でbuyの過去分詞を言わせ、生徒が答えられないと、「ボーっとしているな!」と喝をつけられた。今から考えると私のレベルにあった授業を各先生から受けたと思う。

 藤倉巌先生は『巌(がん)』と言うあだ名で呼ばれ、『徒然草』を読まされたが、その講義はまさに徒然草を通して語られる、人生訓で古文の学びを超えた真実の世界を垣間見させられた思いがした。一方、東大のインド哲学出身だと言われた先生からも英語の授業を受けたが、大変な博識で英語の授業より、三十三間堂の弓矢の射掛け話など余談ばかり聞いていた記憶がする。

 こうして中学時代に私に『短付(短大附属工業高校)』を勧めてくださった担任は、『東高』に進んだ私をどのように見ておられたのだろうか。ひょっとして、私に発奮を促す意図があったのかも知れない。そのお灸が功を奏したからこそ、私はこのような『春爛漫』の高校生活を手にしたのだ。一方、高校一年の担任の先生の言にもかかわらず、私は2年浪人をして、しかも当初の希望大学に入れず、その後の『疾風怒濤』の生活を経験する。こちらの方は恐らく担任の先生が私を励ますために言われたに過ぎないのに、私はこの時はそれ以上努力せずとも合格できると高を食ってしまったのだった。人生ってわからないものだ。

 なお、中学の担任の先生にはその後、私たちの結婚の際に、仲人をお願いした。その時、母は亡くなっていた。ぷりぷり怒って帰って来た母がそのことを知ったら、どんな表情をしたであろうか。今となっては全て懐かしい思い出である。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いはによる。(旧約聖書 箴言21:30〜31)

0 件のコメント:

コメントを投稿