2014年10月16日木曜日

家庭集会前夜の「夢」

昨日の引用聖句 2コリント13・11(文語訳)
夢の話とはもともとたわいない話にちがいない。そんな話につき合っていただくのは誠に申しわけないが、教会とはどんなところかを考えるのにはいい材料になるのではないかと思い、敢えて書いてみることにする。

家庭集会当日(10/15)の朝であるが、明け方、変な夢を見た。何か教会の会議らしいが、私は副議長のような形で参加している。だのに私が発言する。隣には牧師がいるようだ。恐らく彼が議長なのではないだろうか。しかし私の発言は教会を批判する内容だったように思う。それをにこやかに聞いているというのも不思議なのだが、その牧師が私の発言を怒っていなかったのは確かだ。

ところが、その私の発言に勢いを得たのか、会場にいる二人の男性の方がやはり教会を批判する発言をする。会場内にも同調の様子がうかがえる。その瞬間、私は自分は教会員でないのに、厚かましくもその場に連なって発言していることの矛盾に気づき、隠れるようにこそこそ、その場から姿を消す。ところが、私によくぞ言ってくれたとばかり二人の女性が後をついて来た。私はその女性たちに、「実は自分があの場を退席したのは、教会員でないのに発言していたことに気づいたからである」と言った。女性たちは驚くと同時に、それでは私たちとは関係ないと言わんばかりに、私から離れ去って行った。私は一人ぼっちになった。そこで目が覚めた。

余りにも突拍子もない夢に違いないが、牧師は当然のこと二人の男性も二人の女性も私がはっきり名指しできるいずれも、20数年前で一緒に集っていた教会員の方々だった。しかもその内の男性のお一人の方は昨年か一昨年か先に天に召された方である。目ざめた私は床の中で、今しがた見た夢を考えるともなく考えた。教会には信仰12か条というのがあったっけ、その8条、9条にそれぞれ真の教会と地方教会の説明があったなあー。目に見えない教会が真の教会で、目に見える教会が地方教会であるというのがその眼目であったぞ、と。

以下はその夢から目ざめて引き出した私の「教会」に関する結論である。聖書にはイエス様を信ずる者はキリストのからだである教会の一人一人であり、その教会には人間がこしらえた会員制度が入る余地はない。それをいつの間にか牧師制度(すなわち一種の階層制度)が成立してこのような会員制度を土台として教会理論が形成されたのである。私が夢の中で自分は教会員でないからと自覚してその場を離れた行為は、そもそも主イエス様の導かれる教会とは何らの関係ない行動だった。神の前に行動するとはそのような人間の思惑を越えたものであるはずだからである。とすると、制度教会が、主の囲い場である信徒の群れに勝手に縄を張ってイエス様ならぬ、人が支配するために編み出されたのがあの教会理論であったのではなかったのかと合点したのである。

久しぶりに多くの人が来られる、冬瓜も!
でも、そもそもこんな複雑な夢を見たのは何故なのかわからなかった。しかし、その内ハッと思い当たることがあった。実はお世話になったかつての職場の先輩の奥様が77歳で亡くなられた。日曜日その方から受けた電話で知った。先輩とは40年ぶりにお電話で話すことになったが、その話が奥様の逝去であっただけに余計驚かされた。奥様は私に初めて分厚い聖書を貸して下さり、教会に連れて行って下さった方であった。カトリックの信仰を持っておられたが、その当時先輩は信仰を持っておられなかった。ところが何年か前、先輩もとうとう奥様と同じ信仰を持たれたと風の便りに聞いていた。(http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2011/10/blog-post_20.html)

遠いが、お世話になった方なので、思い切って月曜日台風19号接近の悪天候のなか、お通夜に出かけた。会葬者は大変多く、立ったままの参列になった。オルガンの前奏があり何曲か賛美歌が演奏された。その中で故人の略歴が紹介され、スライドを通して奥様の生前の様々なボランテア活動が次々と紹介されて、ご主人である先輩のご挨拶があった。妻の一生は「上を見ては天に恥じず、下を見ては地に恥じず」であり、いつでも家庭は憩いの場であったと言われた。私も独身時代にご自宅への招待を受け、食事をともにさせていただいた思い出がたくさんあり、ご主人の言われる通りに、まことに謙虚な方であり、人に仕える方だと思い、ああこれがキリスト者なのかと思ったことがある。ご挨拶のあと、ご家族親族を先頭に会葬者により延々と焼香があった。お坊さんはいず、もちろん読経もなかった。かといって、カトリックの葬儀でもなかった。

お通夜の後、その方に弔問の意をあらわしながら、その辺の事情を聞くともなく聞いてみたら、「カトリックは階層があるから、脱会したのだ」と言われ、階層があると判断した理由として「司祭、助祭、神父やそれぞれに応じて祈りの言葉があってちがうのだ、(けしからん)」という意味のことを言われ、私を意識してか、プロテスタントの方がいいと言われた。私は「いや、私はカトリックでもありません、プロテスタントでもありません、無宗教です」と申し上げたところ、その方も「俺も無宗教だ(だから、坊さんにも頼まなかった、神父にも頼まなかった )」と言われた(ただ、そう言いながら焼香の場は残された、皆さんの弔意を受けるスタイルに気を遣われたのであろう、私自身は理由を言って焼香は遠慮させていただいたが・・・)。随分お世話になった方でこの方の方に足を向けては寝られない間柄だったが、いつの間にか40数年の年月を経て言葉上の一致を見た。

私が見た夢はひょっとするとこのような経験が深層心理にしまいこまれていて、一気に家庭集会を前に奔出したものではないかと思う。夢とはまか不思議なものである。それはともかく、今後一人になられた先輩に主イエス様を信ずる者はそれだけで無条件にキリストのからだとしての教会に加えられているのだという聖書の示す真理をともに味わい、心ゆくまで語り合いたいと、今思わされている。

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2・20〜22)

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