2014年10月9日木曜日

比類なき導き手である主(中)

台風18号接近前夜の広島三渓園  2014.10.4
多くの場合、人生の途上には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けれども、主はつねに一つの目的を持っておられます。すなわち我々人間をゼロの点にまで低くすること、あるいは破産させること、これが主の取られる方法であり、その限りにおいて、すべての者は自分自身の助けになるものを失い、心から悔い改めることにより、また、主を信ずることにより、主なる神のみもとに行くことが可能となるのです。

なぜか、どうしてか、何のためか、と考えると、今見てきたように、支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。主が人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを聖書を通して知ることができます。

なぜか、何のためかについて考えると、今話したように支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられる。二番目の答えは支配したもう主は信ずる者が、もうすでに救われた人々が、変えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせているのです。

しかし、未信者だけでなく、信ずる者もまたいわゆる運命のなすわざを経験するのです。信ずる者もまた同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。なぜ主は信ずる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らのきよめのためです。また彼らは主の御姿に変えられるためです。

それを証明するために聖書からちょっと二ヵ所ばかり見てみましょうか。ロマ書8章、前に読みました箇所、8章28節、29節。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて(大部分じゃない)のことを働かせて益として(損ではない)くださることを、私たちは知っています。

パウロ、当時のローマに住んでいる兄弟姉妹はこの動かされない確信を持っていたのです。「私たちは確信する。」

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生の途上に横たわっているものすべて、また我々の人生の中に入り込んで来るものすべては主によって用いられており、したがって無価値なもの、無目的なものはひとつもない。たいせつなことは私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に似た者となることなのではないでしょうか。我々の人生の中に「偶然」というものはひとつもない。すべての背後に主が立っておられます。もちろん目的を持って導いて下さるのです。「すべてが益となる」。このことを私たちはつねに新たに毎日覚えるべきなのではないでしょうか。

善きことや、最も善きことは、私たちが造り変えられることです。「造り変えられること」、主の御手によって練られることは確かに痛みを伴うでしょう。すなわちそれは自らが砕かれることなしにはあり得ないことだからです。人はその時失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。しかし、このようなことは自分の思い通りにならない時、目先のことしか考えない時に、起こる事柄です。29節ね。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

主は御子の姿に似た者となるようにあらかじめ定めておられるのです。主が目指しておられるご目的は何とすばらしいものでありましょうか。この目的からつねに目を離さないことは非常にたいせつなのではないでしょうか。

主はご自分に属しておられるものを限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ教育なさるのです。主の教育は私たちが主のきよさにあずかるように、御自身の身許に引き寄せたく思っておられることです。我々の主は完全であり、主の導きもまた完全です。恐らく私たちはすべてを理解することはできない、挫折してしまう危険に直面し、また自分自身を同情してしまうというような場合もあるなのではないでしょうか。

どうして私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。どうして、次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。どうして私はこんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなければならないのでしょうか。

すべての懲らしめはその時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になるとこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

「後になるとわかる。」ここでたいせつなことはその時は一時的に悲しく思われるものですけれど、後になるとそれが結果的に幸いになる、ということです。

次に私たちは次の事柄を覚えましょう。すなわち私たちは決して主のために実験用モルモットのようなものではない。主がつねに最善のみを考えておられる最愛の子であるということです。たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは主によって愛されているということを知ることができます。まさに主の試練やこらしめこそ、主の愛の証拠です。私たちは今そのことを理解することができなくても、しかし後になるとそのことを主に感謝し礼拝するようになるに違いない。一番長い詩篇の中から一ヵ所読みます。詩篇119篇、945頁、ダビデの告白です。119篇の67節です。

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

結局ダビデは、苦しんだのは良かった、必要だった、最善だった、と思うようになりました。

なぜか、あるいは何のためかという問いについて今考えて参りました。前に言いましたように答えは三つです。第一番目、支配したもう主はまず罪人が救われるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。二番目、支配したもう主は信ずる者が変えられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられます。三番目の答えは支配したもう主は救われた者がほんとうに主に仕える者として、用いられるためにそれらの多くの出来事を起こるがままにさせておられます。

多くの信者は実を結ばない木のようなものです。主は彼らを用いることがおできになりません。その原因はいったい何なのでしょうか。彼らは主なしでも何とかやれると考えているからです。もちろん、これは知らず知らずやれると考えているのですけれど、彼らは自分自身の力と自分自身の知恵に依り頼んでいます。そうすると祝福がないはずです。確かに多くの信ずる者は主のために何かをやりたい、主のために一生懸命に何かをやりたいと思い、またこのことやあのことをしたいと主に願ったりするのですけれど、結局彼らはこのことやあのことを自分がしたいため主を利用しようとしてしまうのです。

けれども、実際は主が、主ご自身が人間をお用いになりたいと思っておられます。ご自分の器として信ずる者を用いたく思っておられるのです。永遠に残る実を結ぶ奉仕は主のために我々の努力じゃなくて、私たちを通して主ご自身がなさる御業でなければなりません。これこそ多くのものが我々に逆らっているように思われたり、主が我々を厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。

二つの例を考えてみましょうか。第一番目、ペテロ。自信と独立心が、このペテロの特徴でした。彼は自分自身の能力に間違った自信を持っていました。ちょっと見てみましょうか。ルカ伝22章、149頁になります。ルカ伝22章31節。

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

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