オペ終わり 友のはらから 安堵して 眼下見下ろす 台風一過 2014.10.6 |
人間は確かに誰でも色々な問題、悩みや、苦しみに出会うものです。そして多くの場合そのような問題に直面したとき、私たちはいかなる答えをも見出すことができません。何と多くの人々は山のような問題の前になす術を知らないで悩んでいるのではないでしょうか。けれども、主を知る者はほんとうに幸せです。心配しなくても良い、思い煩わなくても良い。何でも出来るお方にすべてをゆだねることができるからです。確かに、しばしば色々な状況の前になすべき術をまったく知らない。どうしたらいいかわからない。
これは昔のヤコブの経験でした。一ヵ所読みます。創世記42章の36節をお読みいたします。(旧約聖書の)72頁です。
父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
心の痛みの叫びでした。彼のそれまでの生涯においては自分自身の意志や自分自身の力にたよって行なったことが確かにたくさんありました。彼は長い間、ずるがしこさ、また卑劣さをもって、ただ自分、自分の利益ばかりを考えた男でした。けれども、そのような人を欺く者が欺かれました。主なる神は罪を見過ごしにされない方です。これはヤコブが学ばなければならなかった、確かに厳しい教訓でした。
「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち、言い換えれば、すべてのものが私に反対している、もうがっかり。ヤコブの場合のようにすべてが失敗に終わりそのように思えるとき、いったい何がなすべきでありましょうか。いかなる態度が取られるべきなのでしょうか。
先ず最初に私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにちがいないということ。ヤコブの場合もそうでした。なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけれど、いつか必ず会える。シメオンもまた確かに今いない。けれど必ずいつかまた会うようになる。
我々は人間的な見方をする場合、多くのものを正しく見ることができません。次のように言うでしょう。すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わるでしょう。けれどもほんとうはその反対が真実です。すなわちこれらの事柄は我々に反対しているのじゃなくて、我々のためにある、ということです。けれども、そのことは私たちは今はそのようなものとして認識することができないような性質のものですから、隠された祝福であるとでも言えます。
なぜ私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか。なぜこんなことが私にふりかかかってくるのでしょう。このように苦しみながら、悩みながら、いくら自問(自答)していても、何の解決も見出せないような事柄が実際には数え切れないほどたくさんあります。
そこで次になぜか、あるいは何のためか、という質問について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。答えは三つです。第一番目、支配したもう主は罪人が救われるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれる、ということです。主のせいです。二番目、支配したもう主は信ずる者が、もうすでに救われた人々が変えられるために、結局主をよりよく知るためにそれらの多くの事柄が起こるがままにさせておられるということです。そして三番目、支配したもう主は、救われた者がほんとうに主に仕える者として用いられるために、主の御手の中で用いられる器となるために、それらの多くの出来事を起こるがままにほっておかれる。
なぜか、どうしてか、何のためかと考えると、今話したように、言えることは支配したもう主は救われていない人々は救われるために、確かに多くの出来事を起こるがままにさせておられる、ということです。大切なことは人間が真理の認識にいたること、すなわちイエス様に出会うこと、こそです。イエス様に出会わなければすべてはもう意味のないことなのではないでしょうか。
ですから、次のように言えます。人間は救われ得る前にひとたび失われた状態にならなければなりません。すなわち人間は主なる神が、人間を救って下さる前にまず、自分の失われた状態を認めなければならないのです。物質的なものが満ちあふれ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや生ける主について深く考える時間がない。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。
多くの人は救い主を持つ必要性についてめくらですけれど、例えばそのことを認めざるを得なくなったとしても依然として逃げようとするのです。その方々は静かになって人生の意義を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。このことこそ主は多くの不愉快なこと、困難なことを理解することができないことを、我々の上に来らせることの理由です。このような主の導きの目的は御自身のもとに引き寄せること、また赦しと人生の内容を与えて下さることに他なりません。
聖書の中からちょっと一つの実例を見てみましょうか。すなわち、放蕩息子。という人は、自信に満ちて親の家を去りました。もちろん意識して彼は自分が選んだ道へ行ったのです。彼は何ものからも束縛されず、自由に自分の人生を楽しもうと思いました。自分自身の道を行きたいと思う者に対しては主は好きなようにさせます。決して強制なさいません。たとえ最初は自分のことが望み通りうまく行くように見えたとしてもやがてすべてのことが失敗に向かう時がやって参ります。
そして、その結果、突然すべてのものが自分に反対しているように思われるのです。お金はまもなく使い果たして、それまでいわゆる友だちと思われた人々からは捨て去られることになってしまいました。すべてのものが失敗してしまったようです。ちょっと見てみましょうか。ルカ伝15章14節からちょっとお読みいたします。(新約聖書の)136頁になります。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。(どうして大飢饉が起こったかと言いますと主のせいなのです。)それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。(ユダヤ人にとって一番考えられないものです。豚の肉は食べてはいかん。そして豚の世話をするのは面白くなかった。)彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15・14〜16)
けれどこの導きによって、すなわちこの深みへと導かれたことによって、彼はただ単に自分自身に立ち帰っただけじゃなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、ほんとうに満ち足りた幸いな人生へ入ることができました。
(過日天城山荘で開かれた集いにおいて、日曜日の福音集会でベック兄が語られたメッセージの聞き書きである。)
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