「埋木舎」の前の中堀 2013.3.14 |
写真は、10年前、尾末町の叔父宅を訪問した時に撮影したものである。井伊氏は今尾末町に住んでおられ、生前叔父は井伊さんとは町内の隣組同士で今や回覧をまわす間柄だよと笑って言っていた(それは言外に殿様が町人と同じ位置に立っているご時世を思ったのだろう)。叔父については二度ほどこのブログでも書かせていただいたことがある。私にとっては大切な叔父であるが、その2年のちには亡くなった。 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html
井伊直弼は井伊家の14人目として生まれ、どうみても藩主になるとは考えられぬ身で過ごしたのがこの中堀に面した尾末町屋敷である。屋敷はこの中堀に面しているが、鉤の手になる一角なので残念ながら屋敷正面は写せていない。彼はここで元服の儀式を行ない、のちに彼自らその屋敷を「埋木舎」と称えた。
さつ事も うきも聞しや 埋木の
うもれてふかき こころある身は
と、詠んだのがその原義。
(『井伊直弼』母利美和著19〜20頁参照)
その彼が果てたのは、万延元年(1860年)3月3日、季節はずれの大雪が降っていた時、外桜田の上屋敷から江戸城に登城する時であった。舟橋文学が表現しようとした『花の生涯』は直弼の桜田門外での横死の際の直弼の気持ちを次のように描いている。(新潮文庫版696頁)
ーー駕籠の中の直弼は、何者かが、駕籠脇に近づいたのを直感した。
瞬間、投げ出されるように、駕籠が地上へ置かれたのは駕籠かきが斬られたからにちがいない。
もはや、疑いもなく、暴徒狂士の襲撃であると知った大老は、こうして、駕籠の中にいることの危険を察知した。とは云え、うっかり、飛び出すことは、よけい危ない。
(馬鹿者ーー自分を殺して、どうなると云うのだ)
心の底から、憎悪がつき上げてきた。知性の薄い、亢奮しやすい頭脳が、この国では熱血漢として珍重されているのも、妙な話である。国粋も尊王も口実で、実際は政治的権力に盲目となっている或る男に煽られて、自分を殺しにやって来た愚かな刺客にすぎない。そういう奴の手にかかるのは、無念千万だと思った。
彼はたまらなくなって、外へ出ようとし、駕籠の戸に手をかけた瞬間、全身を振り廻すような、激烈な衝撃と共に、あらゆる力を失った。それは大関が、殆ど駕籠脇へ密着するほど近寄って、狙撃した一弾が、不幸にも、直弼の胸に命中したからである。
人の死は何ともうとましい。しかも横死となれば、より一層だ。先ごろの安倍元総理の死も同じ思いにさせられるし、現在起きているロシア・ウクライナの戦いによる犠牲者、はたまたトルコで起きた大地震による万を越す犠牲者を思うと、ことばに窮す。
人間の生と死。罪と死と言い換えても良いかもしれぬが、「花の生涯」ならぬ「人の生涯」には変わらざる主の愛があることを忘れてはならない。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(新約聖書 1ペテロ1章23節〜25節)
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