2023年2月2日木曜日

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。

北風に ユーモラスなり 風見鶏

 昨日も晴天であった。しかし風は冷たく強かった。散歩道にいつもとちがう道を選んだ。昨日もご紹介した小枝の本体である木を探しにだった。結局見つからなかった。その代わり、写真の「風見鶏」を、カタカタという音とともに、とあるお宅の屋上に発見した。風車と組み合わされた造作である。NとSの記号も鮮やかにその姿は青空に一方向を指し、北風をあらわしていた。

 「北風」と聞けば、イソップ童話「北風と太陽」を思い出す方が多いだろう。しかし私は個人的なことになるが、2002年8月に結婚した三男が結婚式の式次第に選んだ次の聖句を思い浮かべる。

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。(旧約聖書 雅歌4章16節)

 私にとって、この聖句は今日に至るまでわからない謎の一つであった。今回「風見鶏」がきっかけで真剣にその意味を調べたくなった。

 この聖句はこの引用聖句の本体である「雅歌」全文の前後関係からすると、花嫁が花婿を思って発する、祈り、願いのことばであり、そのことばはさらに実際は次のように続いている。

私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように(4章16節後半)

 それを受けてハドソン・テーラーは次のように述べている(『主イエスとの一致と交わりーーーソロモンの雅歌ーー』52〜53頁より引用)。

 彼女は、どのような経験に対しても十分備えができています。北風がやって来ても、南風が吹いて来ても、もしそれが園の香料をまき散らして主をお喜ばせするならば、それほどよいことはありません。主は彼女のことを、わが園、ざくろやよき実のなるパラダイスと呼ばれました。主をその中にお招きし、よき実をともに食したいものです。

 このことばに対して花婿が答えます。

私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。(5章1節)

 いまや花婿は、花嫁の呼ぶ声にただちに答えます。彼女がただ主のためのものである時に、主はご自分の満足のすべてを彼女の中に見いだされることを、彼女に確言されます。

 以上がハドソン・テーラーからの引用であるが、この書物の裏には私の字で「1970.1.11~1.17春日部教会で購入」と記されていた。それにしても信仰をいただくかいただかないかの53年前に私にはすでにこの本が用意されていたことを思うと、いかに自分の心が主に対して堅く、盲目であるかを今更ながらに思わせられている。

 なお、三男夫妻が何のためにこの聖句を引用したのか、結婚式当日はわからなかったが、それからしばらくして、私はある時、『日々の光』という毎日朝夕読んでいる聖句集の7月17日にこの聖句も書かれていることを知って思わず微笑まずにはおれなかった。それは何を隠そう。新婦の誕生日が7月17日であったからである。

 『日々の光』の7月17日の夕には5つのみことばが配置されているが、その二番目にこの雅歌4章16節があった。第一番目にあるのは「御霊による聖め」(新約聖書 2テサロニケ2章11節)であった。そしてこの御霊による聖めが、取りも直さず北風、南風を聖霊の働きだとする考え方があることも知った(笹尾鉄三郎全集第1巻244頁参照※)。

 三男家族も私と同じようにその霊の眼は閉じていることだろう。しかし、いつの日か、主イエス様の救いにあずかって、二番目のみことばが一番目のみことばと共通するみことばだと心から納得して、自分たちの結婚また家庭も主の祝福に基づいてなされたんだと思う日が来て欲しいと切に願う。

※これは新婦の言葉である。嬉しさのあまり思わず祈るところである。ある人はこの北風や南風を聖霊にとる。エゼキエル書37章9節およびヨハネ3章8節に霊を風としてあるからである。つまりこの意味にとれば聖霊よ来て下さいという祈りである。北風は死を示すものであってつまり我らに罪を悟らせ、自己に死なせる聖霊の働きを意味し(ヨハネ16章8節)南風は暖かな風であるから聖霊を慰めるお方として味わったのである(ヨハネ16章7節)。

 またもう一つの解釈は摂理の方面から味わい、北風は冷たい風であるから逆境、南風はその反対に順境を示すと説く。2コリント6章8節に「また、ほめられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです」とあるように、どんな風が吹きめぐってきても芳香を発し、ほめられた時も、はずかしめられた時にも同じように香ばしい香りを放つのである。

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