薄曇り 勢揃いする 雀たち |
しかし、薄曇りでかえって良かった。黒と白を基調としながら幾何学的な線が走る。そして線は電線であり、通信線であるが、それぞれは人々に熱を運び、光を運び、情報を運ぶ。そのことを思わされたからである。今朝、その通信線をとおし、旧友からうれしい声が届いた。18、9歳の時、私が母を亡くした孤独と一方で捗らない受験勉強に焦っていた時、私のために祈り、励ましをくれた友人からの電話だった。
この友人は家内よりも早く、福音を私に届けてくれた友人だ。その彼が寄越してくれたハガキには
あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(新約聖書 マタイの福音書6章34節)
と、墨書されていた。その友人とは爾来60年近い交友が続くはずだった。ところが10年ほど前から私が犯した友人への失礼からであろうか、先方から交わりを断ちたいと言ってこられた。私は悲しいことだが受け入れざるを得なかった。
今朝の電話はその旧友の方から、非礼を詫びる電話であった。私は私こそ失礼の段を重ねましたと言った。それでも先方はいや私が悪いのですと言われた。うれしかった。60年前に私のすべてを気遣ってくれた友人との交わりが一瞬にして回復した喜びであった。
そして、昨年12月の彦根への帰省の際に、別のひとりの友人に60年前に(まさに、先ほどの友人から励ましをいただいていた、それと同じ時期なのだが)自分がいかにその友人を貶(おとし)める仕打ちをしたかを思い出し、電話をかけて謝ろうとしたことを思った。残念ながら、その友人は今所在不明で、直接ご本人に謝ることはできなかったが、自分の心の中では整理がついていたからである。
漱石は『心』という作品を残している。「心」とは聖書がもっともたいせつにすることばのひとつではないかと私は思う。漱石はそのことを十分意識してその作品を物したのではないかと思う。ただ、人の罪はカタルシスで終わらせる問題ではない。12月、2月と私の身辺で起こった友人との交わりの回復について主が今私に教えてくださった教訓である。
主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。(旧約聖書 箴言16章7節)
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新約聖書 1ヨハネ1章9節)
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