2023年2月6日月曜日

『受肉者耶蘇』(4)待望する神の人

初めに

 年初のお約束と異なり、このところ私自身のエッセーが連続してしまった。本年は昨年度の青木澄十郎氏のマルコ伝霊解に次いで、David Smithの『The Days of His Flesh』の未完了部分を補充したい意向を持ってスタートしたが、予定に対してその作業が中断した形になってしまった。それこそ、昨日のエッセーで触れた、予定線路を大幅に曲げて「足利市駅」開設に至ったみたいなもので、本来の予定から連載が大分遅れてしまった。それで二、三日少しエッセーから離れて、『The Days of His Flesh』の1/25(3)「牧羊者の群れ」に接続する部分を紹介することにする。

 5 敬虔な志士

 この時のイスラエルの宗教はいたく衰退していました。国の祭司はサドカイ派に属し、教師はパリサイ派でした。しかし、そのうちに二、三の隠れた神の人、敬虔な志士が残っていて、聖書に霊性を養い、信仰と祈祷とのうちに静かに世を送りながら、神の約束と希望とを胸に秘め、暁の曙光を待つように、救い主の出現を今か今かと待ち望んでいたのであります。そのうちの二人に主の降誕(advent)は示されたのです。

「イエスの割礼」 

 このことは実に主の降誕後40日目のことでありました。ユダヤの律法にしたがって主は生後『八日が満ちて割礼を施され』(新約聖書 ルカの福音書2章21節参照)、そしてその名をイエスと命名されました。この名はイスラエル人の間では神聖かつ英雄的な名でありました。思うに、ヨシュアと同じ意味でモーセの後継者がそうでしたし、ゼルバベルを助けて神殿を再興し、ゼカリヤに現われた幻を実行した忠信な祭司もヨシュアと名乗りました。

6 イエス神殿に詣でる

 一か月の後マリヤはヨセフに付き添われ、律法にしたがって身のきよめの供物を献げ、なお長子の生命の贖いとして五シェケルの金を納めるため幼子を抱いて、ベツレヘムからエルサレムに上りました。きよめの供物は通常小羊を用います。しかし貧しい者に対しては『二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひな』で許されました。言うならば、この『貧しい者』の献げ物がマリヤが辛うじて献げ得たものであったのでしょう。

「シメオン」 

 この国運すでに傾きつくした暗黒の時代にあって、なお天よりの曙光が輝き、イスラエルの平安がもたらされるべき将来を期待しながら待っている人々の中にシメオンと称する年老いた聖徒がおりました。彼は『主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けており』(新約聖書 ルカの福音書2章26節)、まるで獄屋に入れられた囚人のように自由の日を待ち焦がれていたのです。

 今聖き一家が詣で来るにあたり、老聖徒は祈るために神殿に詣でていたのですが、幼子を見るやこれを腕に抱き取り、心は歓喜にあふれつつ神を賛美して、『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです』(新約聖書 ルカの福音書2章29〜30節)と言いました。

 主に関する聖書の示しを瞑想した老聖徒の期待は空しくならず、世人が当時の全世界を征服すべき大王の出現を夢見ていた間に、彼は苦しみを負う贖罪の預言に心を留めたのであります。彼は将来をマリヤに預言して『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるために定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです』(新約聖書 ルカの福音書2章34〜35節)と伝えました。

「アンナ」

 シメオンのことばが終わらない間に、また一人の聖徒がそこに現われました。名前をアンナと称す女預言者で『この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた』(新約聖書 ルカの福音書2章36〜37節)とあります。アンナは、側に立ちつつ、口の裡に神を賛美し、やがてここを出て、主がイスラエルに現われるのを熱く望みながら、これを喜び迎える準備を整えた『エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に』(新約聖書 ルカの福音書2章38節)、この聖なる幼子の降誕を語りました。

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