2023年2月18日土曜日

市庁舎移転(下)

駆けつける クレヨンシン氏 はりきって
 以前、クレヨンシン氏が駅東口にお出ましした様子は本ブログの2/5の『神招き給う町に導かれて』https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/02/blog-post_5.htmlで紹介した。今度は西口の市庁舎工事現場である。太陽はシン氏の張り切りように敬意を表してか、幟の天幕の向こうに控えておられる。クレヨンシン氏は今や大忙しである。

 さて、昨日私は『田中耕太郎』という本を読む上で、知人のCIアートディレクターの飯守恪太郎氏(※)を紹介し、「天衣無縫」とその人物ぶりを紹介したが、氏は、その実、非常に神経が繊細な方なのである。私が昔正月にお会いすると決まって、「吉田兄、みことばをください」と言われた。

 「新年おめでとうございます」「おめでとうございます」と慣用句そのままお互いに言い合って新しい年を迎え、それで事足れりとしてきた私にとって、その挨拶は正月早々面食らわせるご挨拶ではあった。ために答えに窮している私に、恪太郎さんはご自身の新年早々与えられたみことばをくださるのである。先輩キリスト者として尊敬し尽くし能わざるお人である。そんなお人は小さい頃からヴァイオリンを嗜まれ、87歳の今も私たちの前で弾いてくださるのだ。

 ところで、田中耕太郎氏の評伝の性格を持つ中公新書には何枚かの写真が載っているが、その中の一枚に「記者の前でピアノを弾く田中、1950年3月1日」と注釈のある写真がある(同書180頁)これは同氏が最高裁の長官に就任された時のものだ。ご一族はこうして音楽や絵画など芸術方面にも造詣がおありのことがわかる。

 さて、その評伝で気になる個所があった。それは奥様の峰子さんの夫田中耕太郎氏のカトリック信仰について触れられた個所である。以下は「乾燥状態の信仰」と題して書かれている記事の一部である(同書273頁より)

妻峰子は、追悼集の中で田中の信仰について、「感情的に信心深いタイプ」ではなく、「かわいた状態で、信仰に非常に率直であったということは、ずいぶん心の貧しいことではないかと思います」と振り返る。・・・峰子の見る田中は、信仰の入り口の段階で、悩みながら信仰を深めようとし続けていた。

 この評自身を私は理解したわけではない。むしろもっと読み込まないとわからないと思うぐらいだ。また、次のような個所もあった。「劇的な振る舞い、抑制的な権力行使」の一節である。(同書277頁より)

田中の論敵に対する姿勢は、まずその中に何を拒否するかを明確に見定めていたことにある。そのため、拒否する対象への批判の舌鋒は厳しく、全面的な否定と周囲は受け取りがちであった。だが田中が決定的に否定するのは、状況に迎合し便乗する人物だった。むしろ田中は、信念の強い論敵には、その信念の中核にある価値を否定し尽くしたように見えながら、信念の強さそのものは評価する。それが田中の対極性との接し方だった。

田中は論敵を強烈に批判しながらも、柔らかく心の有り様を讃える姿勢で接した。プロテスタントとしての南原繁との関係がそうであり、共産党員でも志賀義雄とは親交を保ち続け、戦前には峰子を通じて獄中の志賀に差し入れを続けていた。

 このように、田中耕太郎氏は私がこの本を読むまでに抱いていた、謹厳実直で厳正な人だという印象は、それだけでなく、血の通った心やさしきお人柄だったのだなという印象へと深められた。それはこの本を読んで得た私にとってたいせつな効用の一つである。すなわち人はその外面だけで人を見てはいけないという教訓である。それだけでなく、そのお方が日本の戦後社会の価値原理(日本国憲法、教育基本法)を根づかせるのに、いかに苦闘してくださったかを知り、心から感謝したい思いにさせられた。

 最後に、著者牧原出さんがこの作品をとおして言わんとしたことを最後に述べておられるのでそれを紹介したい。

田中が自ら示した軌跡は、苦渋に満ちた組織の制度化の過程であった。では、制度化を遂げた組織を、次の局面でどう新たに再構築し、関わる人々はどう振る舞い、人々はこれにどう関わるか。それが第二次世界大戦後の組織を受け継いだ二十一世紀現在の課題である。田中の軌跡は、この課題に向き合うための前提の一つである。(同書280頁)

※今や春日部市はクレヨンしんちゃんがマスコットになっているが、恪太郎氏のロゴマークには日野自動車や東武鉄道がある。これも全国を駆けめぐっている。そのせいもあってか(?)2/5の写真を見ると、東武鉄道のロゴマークと「くれよんしんちゃん」が仲良く駅頭にある!

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(新約聖書 マタイの福音書5章3節)

私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(新約聖書 第二コリント人への手紙5章16節)

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