彦根城馬屋門前 2010.2.24 |
60年前というと、私にとって大学受験に失敗していた浪人時代であり、たまたま2/4のブログ『うれしい一本の電話』で記した二人の友人に対して硬軟両用というか、片や表面は柔和そうに装い、内にはどうしようもなく人を貶めてやまない鬼の醜い心で接した友人に対して、一方では弱さを抱えて柔弱さを示して接した友人らとの交友関係があった年であった。
ただ、この『花の生涯』をその当時見たかどうか自信が持てなかったが、尾上松緑の特徴ある甲高い声とその容姿、あの鷹揚(おうよう)とした振る舞いには覚えがあった。この七日、80歳の誕生日を迎えたばかりの私にとり、振り返れば、あっと言う間に過ぎ去った60年ではあるが、否応なしに二十歳前の自分が知らなかった世界を次々と体験させられた歳月であった。それもあってか第一話のどのシーンにも心のどこかで頷(うなず)けるものがあった。それにしても政治の世界と男女の性(さが)の葛藤をすでに一話にして色濃く描いていることには驚かされた。が、舟橋聖一の作品なら当然で、それだけドラマが原作に忠実な証拠だと思った。
だが、私が今回心秘かに関心を持っていた事項があった。それは直弼が国学の師として仰いだ長野主馬の出自であった。長野主馬が直弼に抱えられるまで、住んでいたところは志賀谷という伊吹山麓にあり、その領地は遠く紀伊和歌山の家老水野土佐守忠央(とさのかみただなか)の知行地であった(※)。井伊直弼、長野主馬、水野忠央の三者の間に不思議な結びつきがあったのだ。そのこともあってか、将軍の継嗣をめぐる幕閣内で対立があった際、紀伊藩主慶福(よしとみ)を14代将軍に擁立し、成功したのは、彦根藩主になり、大老職も拝命した直弼と水野忠央の協力関係がその一因にあったようだ。
このようなことはほぼ160年ほど前の過去の出来事であるが、関心を持つことが我が身辺にあった。それは横浜に在住の一人の方が、春日部に越して来られた知人の救いを求めて、たまたま拙宅で行わせていただいていた家庭集会にその方を伴うために出席されたことによるものであった。都合、6、7年間になろうか、結局その方の来訪はその方の知人が2021年に主イエス様を信じて天の御国に召されるまで続いた。その中で私たちとの深い交わりも与えられ、今日に至るもなお深い御親交をいただいている。何を隠そう、この方はまさに前述の水野忠央公の末裔に当たる方であったのだ。
すると、どういうことになるのか、160年後、彦根者である私が、紀州に出自を持つその方と一緒になって、その方の知人の救いを願い、ともに祈ってきたのだ。しかもその方は前述のとおり、横浜から、わざわざ田舎の春日部の我が茅屋にと足を運ばれたのであった。世が変われば、人も変わると言うが、片や日本政治を動かす大問題、片や尊い一人の人間の救い、神様の御目から見れば、どちらも大切であり覚えられていることだと思う。
それにしても、もし長野主馬が井伊直弼と組まなければ、ひるがえって長野主馬が江州にある水野忠央の知行地、その代官の家に住まいしていなかったら、桜田門外の変をはじめさまざまなできごとも起こらなかったかもしれない。人の出会いは摩訶不思議である。しかし永遠の主はこのような出来事の中でもご自身を明らかに示そうとしておられるのではないか。
※吉川英治の『井伊大老』によると次のようになる。(文庫版37頁より)
沢山もない世帯道具をまとめ、長野夫婦が、江州(ごうしゅう)へ越して行ったのは、それから間もないことで、知人たちでも、知らない者が多かった。新居は江州志賀谷だった。伊吹山の麓である。紀州家の家老、水野土佐守の知行所で、土佐守の代官、河原忠之進の家の一部を間借りして、
国典歌学教授、長野主馬義言
という看板を、裏口の筑土風の土塀門にかけておいた。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(新約聖書 使徒の働き17章26〜28節)
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