3 イエスの家庭、その兄弟姉妹
以上は私たちの救い主が、その少年時代より成人に達せられるまで聖き生活を営まれた四囲の光景であります。その家庭には他にも子供があって、イエスはすなわちマリヤの長子で、彼女はヨセフによって後にヤコブ、ヨセフ、ユダおよびシモン(新約聖書 ルカの福音書2章7節、マタイの福音書13章55〜56節、マルコの福音書6章3節)の四人の男児とほかに数名の女児をも産みました。復活の後に至って彼らは初めてイエスの聖跡(みあと)を踏むに至ったけれども、その伝道の当初には主の兄弟たちはその宣言を否定したのみならず、これを冷笑するのでありました。(新約聖書 ヨハネの福音書7章3〜5節)一度はイエスを狂者と公言して、これを捕えてナザレの家庭へ拉致しようとさえ計りました(新約聖書 マルコの福音書3章21節31節)。
『預言者は自分の故郷では尊ばれない』とのことばを度々イエスが引用せられるそのままの事情でありました。後年のイエスの生涯はことごとに志と相反する境地に立たれたが、その少年時代は福音書記者のわずかに残した記事によっても美わしい楽しい時期を過ごされたものと察せられます。聖ルカは『幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった』(新約聖書 ルカの福音書2章40節)と言っています。ヨセフは貧しい大工で、毎日の生計によって乏しい暮しを営んだに過ぎませんでした。したがって栄光の主が、その驚くべき少年時代を過ごされた家庭にはぜいたくの如きは夢にも思い設けられないところでありました。しかし世の物質は如何に貧しくとも、天の宝にははなはだ豊かであられました。過越の祝いには婦人は自由に故郷に止まることもできたにかかわらず、マリヤは毎年その夫に伴われエルサレムに上った(新約聖書 ルカの福音書2章41節)ことに照らしてもその敬虔の念が深かったのが窺われます。
「その父」
ヨセフは篤実な人物で、その『父』と傅(かしず)かれるにふさわしく、心を傾けてこの聖き幼児を育みました(新約聖書 ルカの福音書2章33節41節43節48節)。マルティン・ルターは生涯アイスレーベンの家庭で受けた少年時代の過酷なしつけを忘れることができないで『父』という語は、やがて自分を撲(なぐ)るものと言う連想を浮かべるに至り『バテル・ノステル』(われらの父よ)と繰り返すごとに不意に身震いが出て如何にしても止まらなかったと言います。
主がこの温厚なヨセフを追懐されるにあたってはそのようなものではありませんでした。つまり天父に関する主の中心思想は、その少年時代に、必要と思し召されたものを供え、善きものを拒まなかった家庭の父の愛に負われるところありと言っても敢えて不敬虔ではないでしょう。(新約聖書 マタイの福音書6章8節、7章11節)。牧羊詩人は自ら羊を取り扱うように、神が己を取り扱い、自らの牧者たらんようにと熱望した(旧約聖書 詩篇23篇1節)ように、イエスもまた人間世界の経験を広く見渡された後、これをあらわさんがため、自らこの世に降られた神の愛を表現するもの、すなわち、その感恩の思召(おぼしめし)やみ難い少年時代に被(こうむ)られた慈愛の記憶より、剴切(がいせつ)なるものはないことを発見されたのであります。
「その母」
その母マリヤもまた神より授けられたこの幼児に対する己が職分を等閑(なおざり)にしませんでした。ヤイロの娘をよみがえらされたとき、タリタ『我が小羊よ』(新約聖書 マルコ5章41節)と言う母の愛情籠る語を発せられたのは、その母から学ばれたところでありましょう。
4 その教育
典外聖書には、主の学校時代や、その教師並びに同窓生に対する態度がおびただしく記されています。しかし四福音書にはそれを一つも載せていません。彼らはただ偶然イエスの読書や筆記をよくせられたことを伝えています(新約聖書 ルカの福音書4章16節、ヨハネの福音書8章8節)。したがって無教育のまま成長されたとは到底信じられないのであります。
ヨセフスは『我が国は土地豊穣なり、国民は極力耕作に努む。しかれども我が国最大の努力はその小児の教育にあり』と言っています。ラビ・サロモの語によると、父がその子の教育を等閑にするのは、これを葬ることと同じだと言うのであります。実に少年時代は青雲に志す黄金時代と認められました。ラビ・エリシャ・ベン・アブヤは『少年時代に志を立てて学ぶは、白紙に文字を記すが如し、されども老年志を立てて学ぶは反古に文字を記すが如し』と言い、聖者ラビ・ユダは『世界は学校児童の息によりて存在す』と言いました。
5 家庭教育
ユダヤにおける少年の教育はその家庭において先ず授けられ、その両親は教師となりました。聖パウロは、テモテの信仰が祖母ロイスおよび母ユニケより承けたもので、幼少のころより聖書を学んだと言っています(新約聖書 第二テモテへの手紙1章5節、3章15節)。
ヨセフやマリヤがその小児を教育する熱心の、他の両親に譲るべき筈はありません。イエスまた聡明な児童であって、『知恵は齢』とともに『ますます増し加え』られました(新約聖書 ルカの福音書2章52節)。当時聖書の写本は甚だ高価であったが、紀元前168年既にアンテオカスの密使はユダの諸都市で多くの家からこれを発見しました。ヨセフは貧しくともなお律法の写本は持っていたに違いありません。かつ彼は『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。』(旧約聖書 申命記6章6〜7節)との戒めに心を留めないはずはありませんでしたでしょう。
5 聖書の家
6、7歳に及ぶや、ユダヤの小児は初等の学校に送られました。ここは律法の署をその教科書とするゆえをもって『聖書の家』と称せられ、いずれも会堂に付属のものでありました。会堂は村ごとに建設されたので、学校もまた村ごとに設けられたわけであります。さらに進んで研究するものは学者の大学校すなわち『ミドラシュの家』と称して、有名なラビたちの教授がいる学校へ移されるのであります。
「ミドラシュの家」
『ミドラシュの家』はヤブネに一校あり、『葡萄の園』という所で、ラビ・エリアザルおよびラビ・イシュマエルがその教鞭をとっていたけれども、最高学府はやはりエルサレムにありました(新約聖書 ルカの福音書2章46節参照)。場所は神殿の苑内、恐らく神殿内の会堂のうちにあったものでしょう。中心となった科目は口頭に伝える所を弟子に授けたが、時にはまた問題を提供して教師から弟子の答えを確かめ、あるいは弟子の 質問に対して説明を与えるため質疑をも許しました。教師はやや高い上座に着いて、生徒はいわゆる『賢人の足の塵を浴びつつ』床の上に円座を作りました。聖パウロが『ガマリエルの足下にて育てられ』(新約聖書 使徒の働き22章3節文語訳)と言うのはそれであります。
イエスはラビになられるつもりはなかったので、このような学校には入学されませんでした(新約聖書 ヨハネの福音書7章15節)。
「手内職」
ユダヤの父はその子に正直な職業を必ず教えよ、これを怠るはその子に盗みを教えるなりとの責任を負っていました(新約聖書 使徒の働き18章3節)。イスラエルの賢者の一人は『労働を厭うなかれ』と戒め、ラビすらなお必ず手工の職を知っていました。タルソのサウロはラビとなる目的で、エルサレムの大学に入学したが、それでもなお天幕製造の職を習っていました(新約聖書 使徒の働き18章2節)。それが後年使徒として活動する時代、彼に思いがけない助けを与える準備となりました。一般のユダヤの少年と等しくイエスもまた労働を学ばれたが、その職は当然ヨセフの業を継いで、後年天国の比喩として用い給うた棃(すき)や軛(くびき)をナザレの村民のために製造せられたのであります(新約聖書 マルコの福音書6章2〜3節)。
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