10 エジプトへ逃れられる
ところが幼弱の贖い主(イエス)は、暴君の毒手を免れなさったのであります。降りかかる危険を予知することのできたヨセフは、その妻マリヤとともに主を守りながら、夜に紛れてエジプトへ下りました。この因縁浅からぬ国は、祖先が圧制の下に苦しみ、またユダヤ民族としておびただだしい国民となり、大変栄えた所であります。ここに落人は安住の隠れ家を求めることができたのであります。伝説によれば、この一家は一ヵ年の間、血に飢えた暴君の世を去るまで滞留したと言います。このようにして再びイスラエルの故国に引き返して、幾年月を留守にしたナザレの家に落ち着きました。
11 新時代の紀元であるイエスの降誕
恩寵に満ちている主の降誕が、世界歴史の分水嶺と認められるに至ったことは主に対する著しい貢物であります。主の出現し給うまでは、ローマ市建設の日をもって年号の紀元とせられました。ところがその降誕は間もなく新世界出現の時と認められることになりました。つまり紀元六世紀の半ばごろローマの一修道院の院長ダイオニシアス・エキシグアスがその書シクラス・バスカリスのうちにキリスト教徒は爾後この最大事件をもって年号の紀元となすべきを主張しました。この主張はたちまち全教会の採用するところとなりました。しかしキリスト教徒の紀元はダイオニシアスの計算に幾年かの誤りがあることが明らかで、主の降誕は歴史上最も大事件であるにもかかわらず、その確かな時日を定めることは困難であります。いや到底不可能と思います。
12 その年
イエスの降誕はヘロデの死んだ紀元四年の春より前であったことは確かであります。しかし幾年前であったかにいたっては、ただ近いと思われるころを定めるしかありません。つまりその降誕はクイリニアスの戸籍調査が行われた間でしょう。これはローマ帝国の最初の登録であり、紀元前八年であったとあるこの資料には間違いがないものと思われます。しかしユダヤの戸籍調べはヘロデに種々の難題があったため、著しく延期したものと思われるのであります。時はあたかも彼がその子アレキサンドルとアリストプラスとを誅せんとして惨憺たる難戦の最中に当たっています。そして彼は紀元前9年か8年かに、その窮状を皇帝に奏上するためにローマに上りました。帰ってみると彼の不在に力を得、また不逞のアラビヤ王シルリウスに唆されたツラコニチスの凶徒のためにユダヤは蹂躙尽くされていました。彼は軍を率いてアラビヤに進んだが、機敏なシルリウスはこれを防ぎながら、一方ローマ皇帝アウグストに書を送って、ヘロデの侵入は暴虐無道の攻撃であると、その窮状を訴えました。激怒した皇帝はヘロデに激越な書を下して『従来、予は汝を遇するに友人の礼をもってせり、しかれども爾後汝を遇するに家臣の例をもってすべし』と通告しました。惨憺たる苦心の結果、憐れむべきヘロデは皇帝の信任を辛うじて回復しました。このようにして戸籍調査に取り掛かるべき時は満二ヵ年も流れ去りました。ゆえにその実行は紀元前5年であったと信じられるのであります。
また聖ルカはバプテスマのヨハネの事業を開始したのをポンテオ・ピラト(紀元前25年〜35年)の知事のとき、テベリオ政府の第15年すなわち紀元25年であったと言っております。テベリオ政府はその即位の紀元14年から始まったのでなく、彼が自らアウグストの同輩なりとして『領土において、軍隊において、同等の権威』を有すと僭称した紀元11年に始まっているのであります。したがってもし紀元26年の初めの頃、受洗の当時三十歳(新約聖書 ルカの福音書3章23節)に達せられたとすれば、イエスの降誕は紀元前5年であったはずであります。同時にこの計算が、イエスの伝道開始当時、過越の祝いをエルサレムで守られた年が、ヘロデの建築になる神殿の起工後第46年(新約聖書 ヨハネの福音書 2章20節)に相当するものとよく照応します。ヘロデは紀元前37年に王位に即いたので、神殿再興の工事を起こしたのは、その在位の第18年、すなわち紀元前20年であったとすれば、この過越の祝いはまさに紀元26年となるのであります。
13 その日
西部キリスト教国では主の降誕の日を12月25日に守ることにしています。しかしこれは間違いです。主の降誕は牧羊者がユダヤの野に、その群羊を守ったときとあります。ところが羊を牧場に放つのは過越の祝いのころから冬の初め10月の半ばごろまでであります。したがってその降誕は四月から十月の間でなければなりません。西部教会が何故に十二月二十五日と定めたかは確かにわかりません。この月の終わりの頃ローマにはサターンの神の祭りを行って宴席に己れを忘れながら騒ぎました。淫楽に耽りつつではありますが、なおこれは平和と歓喜の季節でありました。その期間には戦争を起こし、あるいは罪人を罰するのは不敬虔とされ、また友人間で贈り物を交換しました。特に記憶すべきは、丸一日奴隷に自由を与える不思議な習慣であります。当初のキリスト教徒は多く奴隷の境遇にいたもので、異教の同胞が放蕩にその自由の一日を費やす隙を、彼らは尊い血をもって彼らを贖い、神の子である光栄ある自由を与えるため、罪の束縛(※)より彼らを救い給える、彼らの主の降誕を祝しつつ、厳かに、この日に祭りを行ったのは当然でありましょう。
※新約聖書 ローマ人への手紙 7章21節 私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
以上で『受肉者耶蘇』の 第一章 奇蹟的降誕 は終わります。次は 第二章 秘かに忍ばれる三十年 です。
0 件のコメント:
コメントを投稿