2024年10月18日金曜日

記憶違い?(記録と記憶)

時ならぬ 桜開花す 今年の秋
 二、三日前、古利根川沿いの桜の木々に、このような花びらを見つけました。10月の下旬にしてこのような花びらを見せるとは自然は正直なのでしょうね。そこへ行くと私はどうなのでしょう。

 前回、同窓会に出席した旨、そしてそこで思ったことを(上)(中)(下)の三部作として載せさせていただきました。折角ですので、当の卒業生の方にも読んでいただくように案内しました。ところが、突然私の中に黒雲のように不安が襲って来ました。それは(中)で紹介した6人の担任の方が拙宅に来られて、科学映画を私どもと共に鑑賞されたという話です。

 その事実は変わらないのですが、この学年でなく、ひょっとして次の8期生の8人の担任集団の時だったのではないかと思うようになったからです。実は私が曲がりなりにも学年主任を勤め上げられたのは、副主任の先生の力が絶大だったのです。そして感謝なことにもう一度この先生とペアーで学年主任をさせていただいたのです。6クラス編成は8クラスに拡大され、その8人の担任も今回の同窓会を開催された学年の6人に劣らない学年だったのです。私どもの家に学年の担任の方々を招待したことは確かですし、副主任の方がそのいずれにも加わっておられたからです。その時、三男はまだ幼く鼻を垂れており、私たちの間にいたのでしょう。この方は家にいた三男の野生的な所作に共感し、郷里の盛岡の田畑を思い、ユーモアたっぷりに、極めて親しみのある言い方「田舎にはこんな子どもが畦道にいたんだよね」と話され、皆の心が和んだことを覚えているからです。それは私の記憶では今回の卒業生諸君の時で、「6人委員会」の結束ぶりを示す象徴だと思ったのですが、記録がないですから確かめようがありません。

 さて、この副主任の先生に関しては、私にとって、もう一つ忘れられない彼の言葉があります。8クラス編成の学年集団の三年生の時、生徒に不測の事態が発生しました。その時、尻込みしたくなる私に対して、その副主任の先生は「あなたの出番です。私たちは何もできませんから」と言われたのです。私はその時、ただ彼女の命が助かるようにと、「希望は失望に終わることはない」というみことばを携えて、日本医科大学に駆け込みました。彼女は死から生還しました。後にイエス様を信じました。そしてご主人との間でクリスチャンホームを建設しています(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2009/11/blog-post_18.html。ほか)

 4期生の時も、ここでは述べられませんが、一人の孤独な生徒を学年全体6人の担任で愛したのです。そしてその尖兵として私が用いられました。世の中には様々な組織がありますが、互いに愛し合うことがどんなに素晴らしいことかを身をもって体験させられているのです。

 そして不思議なことに「6人委員会」のお一人Kさんが、八潮高校から別の高校に移られてのち、新しい職場内で出会われた方と1986年11月22日に東京・日比谷・松本楼で結婚されました。その時、かつて八潮高校で同僚であった一人一人もまた招待されましたが、その時、その新郎新婦と極めて親しかった、と言うより、転任校で縁結びとして関われた方が、生後七ヶ月の男児を連れて参加されていました。

 この方と私は全く面識がなく、当然出席されていたことも知りませんでした。こうしてそれから32年が経ち、私とは全く無関係な話になるはずであり、すっかり忘れ去られても良いことでした。ところが今から6年前、次女が結婚する時、結婚相手の姑さんご夫妻とKさんのご関係を初めて知り、以前Kさんが作りあげられた素敵な「ご列席者ご芳名」を思い出しました。私はもちろんいろんなものは捨てるのですが、この「しおり」だけは別で大切に保管していました。開いてみるとはっきりと姑さんご夫妻の名前が紹介され、お子さんの名前までが詳しく生後七ヶ月と紹介されているではありませんか。びっくりしました。もちろん、そこには一緒に私の名前と丁寧で過分な紹介文が、Kさんが大学の山岳部でお世話になられた高名な作家の中野孝次さんの名前と紹介文と一緒に載っていました。

 この事実は私の曖昧模糊とした家庭での映写会のお招きの事実に比べ日時などがはっきりしています。しかも、次女から今朝LINEで二枚の写真が送られて来ました。1枚目は七ヶ月のその男児(自分の夫の38年前の披露宴での姿と明記してある写真)と今年2月に生まれ八ヶ月を過ぎたばかりの自分たちの娘との写真でした。いったい次女は何を訴えたかったのでしょうか(影の声:顔のかたちが変わっていないのです!)。そこには私たちの知らないところで神様はご支配なさっているという喜び、発見もあったのではないでしょうか。

 人生の出会いには様々な出会いがあります。そして、記憶は記憶で大切なものだと思います。特に愛された記憶は生涯残るものに違いありません。さらに記録がそれを裏付けるとすれば、これほど大切なことはないのではないでしょうか。写真は明らかにその役割を果たしているのですね。そんな思いで冒頭の写真も見つめたいものです。

主イエスは、私たちのために死にわたされ、私たちが義と認められるために、よみがえられた・・・。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。・・・希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(新約聖書 ローマ4章25節〜5章5節)

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