往年の写真を引っ張り出してきました。私にとって忘れられない写真です。一人の男性の方の膝の上で抱っこされ、こちらを向いているのは私の長男です(※1)。私はと言えば、真ん中で腕を組んで笑いながら、じっとその所作を見ています。さらに奥には家内が生まれたばかりの赤児(次男)をこれまたにこやかに笑いながら、やはりその男性と子どもの方を見ています。1973年になったばかりの写真のように思います。
私がこの時、持った感情は、「兄弟愛」の素晴らしさを初めて実感した時の何とも言えない感情だったと思います。人が自分の肉親を愛するのは当然ですが、他人の子どもを我が子のように愛するとしたら、それまでの私にはそれだけで考えられない世界だったのですが、それが目の前の男性のその所作に現れていたからです。一方で本来私が負わねばならない息子を、その男性にゆだねる、明け渡すということも私にとっては訓練だと思わされていました。こうして私はこの時、「兄弟愛」の実践という「学校」の入り口に立っていたのです。
それから半世紀経ちました。その男性は去る10月14日(月)翻然と天の御国に凱旋して行かれたのです。享年83歳と2ヶ月でした。その男性とは34年前、ある事情で袂を分かたざるを得ませんでした。それはこの写真の示す真実からはまったく予期せぬ事態の出現でした。1990年5月それまで所属していた教会を私が離れ、吉祥寺キリスト集会に集うようになったからです。
その男性とは井波彬訓兄です。彼は私より一学年上の先輩に当たり、すべての点でまさに兄と言うのにふさわしい方でした。この写真の私たち二人の服装から判断すると、二人ともネクタイを締めピシッとしていますから、日曜日の礼拝を終えて、教会内で何人かの方々と談笑している時の姿だと思います。この時、私たち家族は住まいである足利市から教会のある春日部にまで、バス・電車を乗り継いで一時間半ばかりかけて毎日曜日通っていました。
その私は、日曜日の教会の奉仕が忙しく、夜中の零時を越えることがよくあり、足利まで帰るのに一苦労していました。その時、井波兄姉宅に泊めていただいたこともあり、その後5月にはとうとう彼らの住まいである同じ団地に引っ越して来て、ますますお互いの交流は深くなり、土曜日にはともに「武里こども会」を開き、こどもたちに福音を伝えたのでした。
1978年には教会から牧師とともに井波兄と私の二人は派遣されて、東南アジアの宣教地視察(※2)に出かけたほどで、互いに教会と苦楽をともにして来た間柄でした。井波兄の召天を聞き、私たちをよく知っている友であるS兄は、「二人は教会内で対極に位置していた人物で、吉田さんはバリバリの教師で、言うならばパリサイ人で、井波さんはデーンとしていて、細かいことにこだわらない頼りがいのある人だった」と述懐してくれました。
※1 彼には長男と同学年の息子さんがおられたのです。その彼が息子さんがいないかのように。我が息子を抱いてくださっているのです。
※2 当時、日本福音自由教会ではシンガポールに横内宣教師、インドネシアに小川宣教師、栗原宣教師、安海宣教師たちを派遣していたのでその宣教地を実際にこの目で見て、共に現地の方と交わり祈ろうという趣旨で、ほぼ一週間かそこらの旅行だったと記憶しています。考えてみれば、この時、八潮高校の三学年の担任、学年主任でしたから、どのように公私にわたるこの激務がこなされていったか、今から振り返ると家内をはじめとする家族に様々な犠牲があったことを思います。それを決定づけるかのように1981年には私たち家族にとって忘れられないこと(田舎にいた父の痴呆症発症)が起こりましたが、その時も、陰で支えてくださったのは井波兄姉を始め教会の皆様の祈りとご奉仕でした。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(旧約聖書 詩篇133篇)
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