2024年10月14日月曜日

同窓会出席(中)

秋深く 過越思い 月仰ぐ(※1)

 ところで、この八潮高校は私が埼玉県の教員採用試験に合格し登載されてから、正式に赴任が決まった高校であリました。それまで9年間栃木県で商業科の教員をしていました。その私が埼玉県の社会科の教員になろうとしたのは、とどのつまり、日曜日の礼拝のために栃木県足利市から出席していた教会が埼玉県春日部市にあったからです。課外とは言え、日曜日以外も教会の奉仕が忙しくなり、いっそのこと、足利市から春日部市へと住居を移してはと思い、三年前にすでに大胆にも実行してしまったことにあります。

 八潮高校の教頭さんから、「うちに来てくれないか」という打診があったのも、当時、教会で奉仕をしていた時だったと思います。家に電話されたが、私が不在のため、家内から教会の電話番号を聞いてかけてこられたようです。私にとっては待望の知らせでした。私はそれまで2年間、採用試験には合格するが、その後、埼玉県内のどこの高校からも打診がなく、2年間棒に振っていたからです。

 低い小さな声でおっしゃる教頭さんの声は、「ついては一年の担任を持ち、学年主任として働いて欲しい」という知らせでした。私は一瞬戸惑いました。栃木県の現任校では交通事故(※2)に遭ったとは言え、担任も一回だけしか経験しておらず、まるきり自信がない、ましてやその上、責任のある学年主任の仕事を果たせるものか、という不安でした。一方、私は栃木県の組合活動に熱心で、学年主任は担任団の互選が望ましい、それこそ民主的な職場づくりに貢献すると考え、職場で実践活動をしていたからです。だから戸惑いましたが、このお誘いを拒めば、またしても浪人かと思い、そのお電話に結局お引き受けしました。

 こうして1976年(昭和51年)の4月に273名の新入生を迎える学年団の一員となったわけです。同校は新設間もない高校でちょうど4年目に入るところでした。清新の意気に燃えた若い学校でした。私のような若輩者(33歳)でも年次は上から数えた方が早い部類に入っていました。しかし、私は埼玉県の教育界の現況も知らず、落下傘部隊よろしく、すでに五人の方からなる学年団が構成されている中に、追加のように私が一人加わり、しかも学年主任を任せられたのです。管理職の先生方は私の存在をよく知られず、埼玉県に転入して来たばかりで組合に未加入の私が学年主任なら都合良いと考えられたのではないでしょうか。

 しかし、この学年団は副学年主任たる先生の影の力、その五人の先生方の協力もあって、稀に見る結束力を持つ学年集団として成長していったのではないかと思います。学年を卒業させてからも、担任6人は「6人委員会」と称しては飲み会などを課外で精力的に持ち、互いの交流を深めて行ったからです。この「6人委員会」の面々は、当時教会の宣教活動に熱心で、課外にD.L.ムーディーの「科学映画」を私の家で試写した時も、喜んで出席して歓談に加わってくださったほどです。互いの人生観は当然違うのですが、それでもお互いの存在を認め合いながら切磋琢磨していた仲間だったのではないかと思います。

 今回の同窓会で私が経験したことは端なくもその一端ではないかと思っています。明日の項目でそのことに触れたいと思います。

※1上掲の写真は昨夕の古利根川沿いの夕景色です。三、四日前まではまだ蝉の声が聞こえましたが、さすがにこの頃は聞こえなくなりました。

※2https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_28.html

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(旧約聖書 箴言17章17節)

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