2024年10月22日火曜日

兄弟愛の発露(中)

 前回述べました友人S兄の井波さんと私に対する評は当たっているのかも知れません。と言うのは、私が教会から集会に出て来た直後、Yさんという極めてガタイの大きな方で目つきの鋭い方が、同じく教会から集会に移り、喜んでおられた時ですが、私を指して「吉田さんは、教会の閻魔大王様のようだった」と笑いながら言われました。この方の井波さん評は聞きそびれましたが、これらの言こそ私が教会から集会に導かれる要因の一つでした(※1)。

 さて、34年前に、ここでは明らかにできない、よんどころのない事情によって教会を出て、集会に移ってしまった私たち夫婦にとって、今回、井波兄の葬儀に出席することは想像もできないことでした。ただ、この34年の間、今から7年前、一度だけ数名の方々と一緒に、兄姉とお交わりする機会がありましたが、それは個人的に肝胆相照らすという、交わりとまでは行きませんでした。しかも、その時以外はまったく没交渉でした。だから、「兄弟愛の発露」と題して前回お載せしました写真の物語る真実からは、井波兄姉と私たちとの関係は、いつしか遠く離れたものになっていました。それは同じく主イエス様の救いを内に体験する者にとって、どこに所属しようと関係のないことですから、私たちにとっては悲しい現実でした。それだけ、私たちが教会を出てしまった事実は、教会の人々にとっては面白くない事実であり、心のわだかまりの原因となっていたのだと思います。

 それはさておき、井波さんが今から50年前、1974年に牧師に代わりメッセージされた内容を私は良く覚えているのです。その中心テーマはピリピ書をもとにした「絶えず喜びなさい」であったと思います。兄は「救世軍」で主イエス様の救いにあずかられ、私たちより少しあと1971年に「救世軍」から教会に移って来られました。もともと行動力のある方で、極めて実践力に富むキリスト者でした。彼は、キリスト者が喜んでいなければ、いくら我はキリスト者なりと言っても通用しませんよという意味のことをよく言っていました。この彼の信仰はおそらく生涯変わらなかったと私は推測しています(※2)。

 そして、冒頭のにこやかなこの人物こそ、先週土曜日に開かれた葬儀式場で掲示されていた元気な時の彼の姿です。私たちは教会の主催される井波兄の葬儀に誰はばかることなく列席させていただくことができました。そして多くの懐かしい教会員の方々と再会できたのです。その背後には、全く没交渉であった34年にピリオドを打つべく、その最晩年に井波兄姉と共に主をあがめることができた事実があったのです。次回はそのことを中心に書かせていただきたいと思います。

※1 教会によって様々だと思いますが、私の所属していた教会は、教会員の奉仕がそれぞれたくさんありました。そのうちの一つに「受付」もあります。私は入門クラスというのを担当していましたので、よく教会の受付にもいることが多かったのですが、このYさんはいつもお子さんを日曜学校に連れて来られるので、終わりまで待っておられるのですが、玄関の扉を境として、外にYさん、内に私がいることが多かったのですが、そのYさんの目には私は「閻魔大王」に見えていたのです。要するに、この人は教会に入るにふさわしい人か、そうでないかと見張ってチェックしている人間だった、ということです。自分ではいつもYさんの救いのために祈り、柔和な表情で接しているつもりでいたのに、Yさんにはそう見えていたのだと知りショックでしたが、先頃また同じようなことを友であるS兄から言われたので、自分にはそういう面がある。ましてや神様の目にはそう見えているのだと自戒せざるを得ませんでした。でも究極的には私の体質の中に万人祭司でなく、牧師制度の頂点近くにいた人間として、主イエス様の救いを妨げていた罪があったのです。それは教会を出て初めて知った真実でした。
 私たちは「教会」を無視しているわけではありません。ただ「教会」が教える会になって人間の教え・支配が中心となってはならないとの信仰告白のもと、あえて「集会」(エクレシア)、主イエス様によって呼び集められた者の集まりという意味を込めて「集会」と言っているに過ぎないだけであって、実態は「教会」と何ら変わるところはないのですが・・・

※2 私は教会時代この「喜びなさい」というのが大の苦手でした。どちらかと言えば、「我いかに悩める者かな」と慨嘆するのが性に合っていました。しかし下記のみことばが示すようにそのことは「主にあって」「キリスト・イエスにあって」初めて可能だったと悟るようになりました。このことについて今一度井波兄と「教会」と「集会」の垣根を越えての交わりをさせていただきたいと長年思っておりました。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(新約聖書 ピリピ4章4節)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(新約聖書 1テサロニケ5章16〜18節)

0 件のコメント:

コメントを投稿