2024年10月31日木曜日

ルーテルの恃み(1)

by Kiyoko.Y(※1)
一 論題と赦罪券

 明日より数えてちょうど満507年前(※2)なる1517年10月31日のことであった、その日の正午ドイツ、サクソニー選挙国の首府なるウイッテンベルヒの城教会の門戸に何人も知らず一つの文書を貼付した者があった。この教会の門戸に文書が貼付せらるることは珍しくなかった。何となればこの教会はウイッテンベルヒ大学と密接の関係を有し、大学が何か重要なる文書を公表する時には常にこの門戸を掲示板として使っていたからである。この日の文書もやはり大学風のものであった。すなわちその文体はラテン語であった。その表題も学者風に「神学の博士が赦罪の効能を説明するの目的をもって争論を提出す」とあった。説明は95の論題に分たれ、而して何人に対しても「神学博士マルチン・ルーテル責任を負うて答弁せん」とあった。文句もあくまで大学風の礼儀を失っていなかった。どこから見ても別段不思議な文書ではなかった。

 その翌日11月1日は諸聖徒節、すなわちこの教会の祭日であった。この日はまた教会の創立及び献堂の記念日に当たり、その他種々の儀式の記念日であった。したがって多くの群衆が諸方からこの教会へ集まって来た。彼らは会堂に入らんとして、その門戸上の文書を見逃すことはできなかった。何だろうといって彼らは目を見張った。彼らは驚いて、また恐れた、容易ならぬことが起こったと思った。一篇の文書はたちまち大問題を引き起こした。至るところこの不思議な文書の噂(うわさ)で持ち切った。町の人はみなこれを見に来た。離れた地方の人は大学に向かって注文を発し、それを印刷して送ってくれと頼んだ。大学はドイツ語の副本をもこしらえ、二国語の写しをその付属印刷所で昼夜兼行に印刷したけれども、とても注文に応じ切れなかった。発表後二週間経たぬ内にドイツ国の大部分に行き渡った。四週間目くらいにはもう外国まで出て行ったという。そしてあらゆる階級あらゆる社会の人がこれを論じ合ったという。印刷術も発達せず交通機関も不便なる当時においてはまことに非常なことといわねばならぬ。この不思議な文書には何を書いてあったのであろうか。

 この文書は秩序整然たる論文ではなかった。ただ赦罪の効能について断片的に意見を述べたものに過ぎなかった。しかしながら要するに赦罪に対する一つの攻撃であった。然りかのローマ法王が使徒ペテロ以来世々継承し来れる最高の権力をもって罪に悩めるすべての人に対して宣言したる赦罪に対する攻撃であった。当時法王の権力といえばこの世における最高の権力であった。何ものもこれに対抗することはできなかった。皇帝すらも法王だけには服従せざるを得なかったのである。ヘンリー四世が法王と争い法王より破門せられたるがため帝位におることできず、自身カノッサに赴いて法王に哀訴せんとしたけれども面会を拒絶せられ、泣く泣く三日間を雪中に立ち尽くしてようやく許されたとは歴史上有名な話である。皇帝すらなおかつ然り、もって法王の勢力を察することができる。しかるにこの法王の権力に対して神学博士マルチン・ルーテルというろくに名も聞こえなかった一人の僧侶が、大胆にも無謀にも攻撃の矢を放ったのである。これを見て人は驚かざるを得なかった。彼を狂人と思った者も決して少なくはなかったであろう。しかし狂人か真人か、それは後にてわかる問題である。

※1    このスケッチは、8/19というとんでもない盛夏の時期に、友人から早々にいただいた秋の便りでした。大分遅くなりましたが10月の終わりにやっと載せさせていただくことができる季節になりました。

※2  今日の文章は『藤井武全集第8巻』599〜601頁より引用しましたが、本文は1917年10月31日に書かれたものです。したがって原文では「ちょうど400年前」と著者は書いていますが、現在に合わせてその部分を507年前とさせていただきました。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(新約聖書 ルカの福音書12章5節)

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