2015年5月28日木曜日

キリスト教とその疑問(私の宗教迷論) 

表門橋に向かう中堀の沿道の松並木、「いろは松」通学路の一つであった

 前回、出身校の64、65合併号の新聞に載っていた先生の卒業生に贈ることばを載せさせていただいた。ところがこの合併号は56年後の今日読んでも大変読み応えのある記事が満載されていて驚かされる。同誌にはさらに四人のAFS留学生の紙上座談会なるものが掲載されていて、その中味は結構な日本文化批判になっているからだ。そしてそれに並行するかのように、同じ紙面に書かれている標題の署名記事があった。6段にわたるかなりな分量の記事である。以下、その一部を書き写してみる。

 「宗教」この言葉は我々にとって一種独得な異様なひびきをもっている。そして宗教、信仰には無関心、必要性認めずと頭からこれを否定する人また少なからずといったところか。
 私はここでいわゆる「宗教私論」なるものを述べようとは毛頭思わない。否私にはその資格もない。しかし以前からこの宗教に対しては一応の関心というか、ある未知に対する興味というものを少なからず持っていたところ、ある偶然の機会から更に一歩その関心の度合というものが高まった故をもっていろいろな方面から再確認してみた。
 宣教師として八年前来日され現在滋賀大学講師をしておられるジョン・マッソン氏(スコットランド人)に会見する機会が与えられたことは幸いであった。彼はいう。

「日本人は大変良い国民だ。しかし彼らはいわゆる物質的に成功さえすればそれで満足している。快楽、金というもので満足しているのが大多数の日本国民だ。しかし彼らは迷っている。精神的安定、ゆとりがない。それは信仰していないからだ。不信仰であることは決して救われない。神に立ち返るまでは救われない。私はすべての日本国民がクリスチャンになることを望んでいる」さらに彼の話は続く。
 「キリスト教を信仰してみて『ああよかった。何故もっと早く信仰しなかったのだろう』と誰もがきっと言います」

 「どうすれば信仰することができるのか」

 「聖書だ、聖書さえ読めばよい。聖書は”心のともしび”だ。聖書は”鏡”だ。読めば自分自身がよくわかる。実に力強い書物だ」と。更に彼は「聖書を信じることだ。 Seeing is believing といわれている。(しかし)Believing is seeing 聖書においてはこれだ。まず頭から信じ切って読んでみることだ。そうすれば自分自身がもっとよくわかるだろう」

 マッソン先生との会話の一端を紹介してみた。私は延々四時間余りにわたる彼との会話で大いなる影響を受けたことは事実だ。大いに動かされた。少なくとも今までとは違った目でキリスト教を再確認したとでもいおうか。そして「自分はキリスト教を信仰する必要がある」と思わざるを得なくなる立場におし迫られた。これは単なる”未知へのあこがれ”という言葉ですましてしまいたくない気持ちだ。

 「信仰して何になる。キリスト教を信仰しなくったって精神的安定は得られるではないか。いわゆるモラル道徳というものがある」ある人(あえて無神論者とは言わない)はこう言うだろう。確かにその通りである。

 思うに一つの定義を下すならば宗教を信仰するということは”死”というものがあらゆる根源になっているということである。人間は必ず死ぬ運命にある。我々(宗教を信仰していないもの)が思うことはこの”死”という一つの事実によってすべてが終るということであろう。「死んだらすべておしまいだ」ということだ。それ故我々は大いに死を恐れる。信者と不信者との考えの相違、宗教必要の是非論はこの観点から生ずるのではなかろうか。

 すなわちキリスト教では「死後の世界」を肯定している。この死後の世界がある証拠として、イエス・キリストの復活がある。神の子であるイエスが人間のためにゲッセマネにて、血の汗を流し十字架の上で処刑された。彼がそのまま死んだままだとしたらキリスト教というものが起こり得なかったかも知れない。しかしキリストは死後三日目に復活、すなわち人間の体として生き返った。これは彼が死に打ち勝った事ではないか。ところがこのイエスの復活を信じない人があるだろう。私もそうだった。しかし、彼の死を、そして復活を現に見た人たちによって聖書が書かれたのであるから、この復活は信ずるに値するのではなかろうか。

 こう述べて、論者はさらにパスカル、ルソーを援用しながら最後にある方の著書からの引用だと言って次のように締めくくる。

 神を対象にした「信じる」と言う言葉に反感をおぼえる人があるらしいがしかし、我々の日常生活において最もひんぱんに用いられている言葉の一つは「信じる」である。
A. たとえば我々はアウグストス皇帝が実際に存在したことを信じている。すなわちこういう歴史的実在をこの目で見なくとも信ずるに足る証拠があるからこそ「確実に納得する」のである。これと同様に母の料理には毒が入っていないと信じる。そういうことは想像さえもしない。信じるということには疑いをはさまぬ確実さがある。

B. 信じるという行為の対象は一つの真理であるから従って理性の行為である。すなわち「理性的な納得」である。理性の納得は広義に見れば二つに分けられる。一つは自明性に基づく納得であり、例えば四プラス四が八になるというようなことである。(もう一つは)例えば私のポケットに千円入っていると私が言ってあなたがそうだと思うなら、あなたは私の言葉を信じたことになる。しかしこの場合には理性で納得するより先に話す相手の権威と真実さとを調べることになる。冗談や嘘をつき慣れている人の言葉ならすぐに信じないだろう。結局信じるためには二つの要素がいる。一つの真理を認めることとその真理を言う人の権威にもとづくこと、この二つである。

C. これを宗教的な信仰に応用すれば次のようになる。
(1)啓示された真理
(2)この真理をあやまることもなく人をだますこともない神の権威に基づいて信じる。

 要するに宗教の信仰は神の権威にもとづく確実な納得である。(滝本)

 私は、今回帰省中に反古にしても同然の母校の新聞から、このような記事があるのを知った。署名を手がかりに私はこの方が一年先輩の当時二年生の方であり、その後、新聞記者になられ、最後は大学の外国語学部の先生になられたことを知った。残念ながらこの方は12年前に召されておりお会いすることがもはや叶わなくなった。高校時代、この記事については読んだ記憶が全然ない。それほど私は福音とは縁遠かった。その私が56年後、この滝本さんの記事に深い感銘を覚えさせら、拝読させていただいている。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。(伝道者12・1〜2)

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