2015年5月9日土曜日

長島の先住者山田景久氏を偲ぶ(上)


 今の日出患者住宅には、昔「狸の毛皮を纏った、六尺近い、鰡(ぼら)のような魚をも頭から喰う、赤鞘の太刀を持った侍」が住んでいた。彼は長島唯一の先住民である。われわれはこの偉大なるパイオイニヤに敬意を表し、いささか彼の風貌を録してみたい。

 長島は、古来牧場として有名であったが、幕末の頃伊木家は長島牧場の番士として山田氏を遣わし、長島日出に住まわせた。(現在の炊事場付近)彼は資性実直剛胆、行跡常人を卓越し、奇人として知られていた。任は牧場の番であったが、禄高が少ないため畑作をもって副業としていた。

 長島には古来狐狸が沢山棲んでいたので、山田氏はこれを捕えて剥ぎ、皮は衣服とし、肉は食料としていた。また、海に飛び込んで魚を手掴みにし、「たこ」のごときは生で頭から喰ってしまうような、すこぶる「グロテスク」な士であった。

 ある時、例によって真っ裸で海中にはいっていた際、参勤交代の途、島原の中川修理太夫の船が水を得んものと近づいて来た。船中の侍は海中にいる男をただの漁師と思い、何気なくぞんざいな口調をもって水を求めた。くだんの男は一言の答えもなく、急ぎ家に帰り、再び立ち帰った姿を見ると、礼服着用、威儀堂堂たる士、「われこそ伊木家の臣、山田治武左衛門景久と申す」と名乗りをあげたので、先刻の家臣は急に態度を改め、いんぎんに水を乞うた。彼は水に加えるに、平素乾し貯えた乾魚を添えて呈し帰らしめた。中川修理太夫これを聞き、大いにその好意に感じ、さらに物を与えて感謝の意を表したと伝えられている。

 彼は、備前長船横山祐之に重量二貫目の太刀を鍛えしめ、銘して「伊木家臣山田・・・」と刻せしめ、好んでこれを帯びた。長州征伐の際、兵糧運搬の任に当たり、広島に出陣した際、往来に榊原の同勢洋式の銃を組んで休息していた。

 治武左衛門例の太刀を帯び、陣羽織の下からは狐の皮がはみだしたまま通りかかり、小癪なとばかり例の太刀をもって当たれば、ことごとく銃は倒れたが、人々は彼の異様な風体に気をのまれ、誰一人として一言も言いえなかった。大西郷も傍らにあって微笑して見ていたと伝えられている。

 明治7年、版籍奉還の際、他人はその下付金で利殖を計る時に、彼は超然下付金ことごとく、投じて陣羽織、太鼓、ほら貝を求め、家族の者どもに具足せしめ、ブーブードンドンと長島の中を行軍したと。もって彼の真面目を察することができる。彼は非常に義理固く、毎年旧恩を忘れず、手作りの籠に魚類、つつじなど折添え、岡山の伊木家に献じるのを常としたという。

(『飛騨に生まれて』宮川量著193頁より引用。この著者はわずか45歳で召された。現在は国立療養所長島愛生園と称されるが、その施設を設けるべく1930年の開設期に光田園長とともに鍬を投じられた方である。総頁302頁にわたる著者の遺稿集である。『国籍を天に置いて(父の手紙)』が取り持つ縁で先頃この素晴らしい本を手にした。一部紹介する。この短文を引用するにつけ、私は同時に二つの聖書箇所を思わざるを得なかった。一つはバプテスマのヨハネの紹介文。今一つはヨハネの福音書4章に書かれてある、スカルの女に水を所望されたイエス様の記事である。読者顧みて同個所を読まれれば幸いである。ここでは以下の個所のみことばを書きとめる。そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。マタイ3・2〜4

0 件のコメント:

コメントを投稿