2015年5月10日日曜日

長島の先住者山田景久氏を偲ぶ(下)

著者宮川氏は左端の方(長島愛生園 昭和10.9.10)

 彼の晩年は不遇であって、彼の妻、しかは明治19年4月2日51歳で彼に先だち、彼は明治31年9月27日、寂しくこの世に別れを告げた。時に年84歳。

 彼は死んで日出山際に葬られ、形ばかりの石塔が積まれたが、年古りてその墳墓は壊滅し、笹の生えるに任せてあった。ここに光田園長、坂本裳掛村長など相謀り、長島の唯一のパイオニアの霊を弔わんと檄をとばし、四十数円を得て、一基の石塔を新調し、8月20日、虫明興福寺和尚を聘し(※)、一座の法会を行なった。(中略)

 偉大なる長島の開拓者よ、おんみあるによって、今日安らかな天地を与えられた数千の病者は幸いなる哉。われらまたこの清き地を、さらに清きものとすべく守りつづけるであろう。唯一の長島の先住民よ。乞う、われらを冥助せよ。(昭和7年・長島開拓)

     祈り

 人生において、祈りを土台にせずして何が出来たであろうか。釈迦の菩提樹下の涅槃は、祈りというべきではないかもしれないが、一切衆生に向かっての下座の姿は、人生のもっとも崇高な祈りの境地といってよいと思う。

 ゴルゴタ山上のイエスの祈りは、この世を根本的に改造した最高、最大の祈りである。

 みずから毒を飲み、従容と死んだソクラテスをつらぬくものは、ただ一つの祈りにすぎない。

 明治維新の大業も、また志士たちの祈りのあらわれである。地上に祈りなくして、何の事業が成就し、何の建設があろうか。三友寺墓地の祈りは岡山孤児院を生み、それを大ならしめた。

 アウガスチンを生んだものは母の祈りであった。中江藤樹も母の祈りによって学んだ。幼少のとき、四国へ渡って学んだ藤樹が、母のため「あかぎれ」の妙薬を見つけ、郷里へ持参したところ、母は藤樹を追い帰し、そのうしろ姿を拝んだという。

 今日現われて、明日消える事業はさておき、永遠に残る事業たらしめるためには、祈りが最大の要素である。

 光田先生の祈りの前に、病友たちはおちついた生活の中から、ようやく自己を見出しはじめた。先生の祈りを学び、その祈りに合わせて、ひたすら祈りたいとおもう。

(※著者宮川量〈みやかわはかる〉氏は高山にある真宗大谷派のお寺に生を得、少年時代に得度し、学校の休みの間は父の代役を果たし檀家廻りをされたと言う。その後、病を得、かつまた寺院生活に疑問を持ち、煩悶を積み重ねる内に聖書に出合い、救われた。その彼はどんな思いを持ち、この法会に連なっておられたのだろうか。
  故郷を出て千葉の高等園芸学校に学ばれ、かねて年少より持たれていた救癩の思いが主イエス・キリストと結びつけられたのは次の本間俊平のことばであった。『其許は癩は悲惨のどん底と言われるが、悲惨とは神を知らざることで、神を知ればすべてのものが感激に変るのである』以後、園芸の術を生かし岡山長島に、沖縄にとその生涯を救癩と癩者の魂の救いのために仕えられ、さらに医師となり直接的に癩患者と関わろうとされたが病と死のためにそれは実現しなかった。
 しかし、その生き様は奥様を通して子どもさんに受け継がれた。「人は信念によって生きるのではない、(イエス・キリストに対する)信仰によって生きるんだよ」とは量氏亡き後千代子夫人が子どもさんたちに語り残されたことばと聞く。 
 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。ヘブル7・24〜25

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