2019年1月27日日曜日
神の徳の充満
天にも地にも、わたしは満ちているではないか。(エレミヤ23・24)
いつも同じような話で恐縮してしまうが、事実だから、今日も書いてみたい。昨日私たちは午後2時の浦和の家庭集会に出席するため、そしてたまたま二人してその場で話をするように要請されていたので、ともに雁首そろえて、そこで話をすることをまとめていた。しかし、時間がどんどん経ち、12時半近くになった。家内は完成したが、私はまだ未完成であった。でも私は残りは電車内で考えることにした、ギリギリの出発である。
ところが、家の玄関を出て早々、家内が慌てている。「自転車がない!」。あちらこちら探してみたが、「ない!」と。悪い癖で家内は施錠しない日が多いのだ。その日も施錠していなかった。完全な盗難である。家内になぜ施錠しなかったのかと怒鳴ってみたが、今更どうにもならない。二人して自転車はままならぬことと相成った。特に家内は歩くことを嫌う。それで、私が歩き、家内に自転車を使わせた。最寄りの駅も春日部から、一ノ割に変えた。歩く距離が春日部よりは短いからだ。もちろん浦和に向かうには逆に遠回りで時間もかかる。
一ノ割から春日部まで来て、そこからアーバンパークラインに乗り換え、大宮に向かうことにした。電車の中ではまだ未完成のところを考えるつもりでいた。その時、ふとベンチに中年の男性が座っているのが見えた。彼とはかれこれ2、30年ほど会っていないが、昔の面影は残っていて声をかけたら案の定、彼だった。家内ももちろん彼を知っている。お互いほぼ30年前に教会で一緒だったからである。
私たちが教会を出る頃、彼は教会に来始めて二、三年というところであったろうか。なかなかイエス様の存在が信じられず、様々な哲学論理を展開されるので困った覚えがある。でもその彼もその後、イエス様を信じられたようである。電車内で三人一緒に話し込んだ。彼は懐かしさもあってだろう、次から次に話しかけてきた。こちらももはやまとまっていない話の推敲は諦め、彼の話に耳を傾け、私の方からも様々なことを聞いたり話したりした。互いに積もる話は尽きなかった。
ところが、彼は「実は昨日あなたのことを例に挙げ、ある人と話をし、家に帰ってからも家内とどうしていらっしゃるのだろうね」と話ししていたのだと言った。驚いた。もちろん、彼自身が何よりも驚いてそう言ったのだった。しかもその話の内容たるや、実に私が今現在知るのに必要なことばかりであった。委細は省略せざるを得ないが。そして、私は2時から話の中で皆さんにお見せしようと密かにカバンの中に入れていた本があった。このブログでも何度かご紹介したことのある『国籍を天に置いて(父の手紙)』(発行者小早川順子)※である。私は思い切ってその本を彼に進呈することにした。彼が歩もうとしている道(掌中に『ヘーゲルとその時代』を忍ばせていた彼の道)と違うし、彼に通じないかもしれないが、私はこの本に秘められているキリストのいのちを何としても伝えたかったからである。
昨日の彼との出会いは、もし自転車が盗まれていなかったら、時間が違い、出会うことは叶わなかったであろう。別れ際、「今度話しに行っていいですか?」とまで言われた。それほどの間柄なら、ここ2、30年の互いの音信不通は何だったのかという思いもしないではない。しかし、昨日の30分足らずの小さな一コマの時間ではあったが、天にも地にも満ちていらっしゃる主なる神様は愛をもってご計画なさった出来事だと思い知った。
さて、私たちそれぞれの出会いの引き金となった自転車を、今日、木枯らし気味の風を背に、二人して、探したが見つからなかった。
※https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/02/blog-post_26.html から10回シリーズで書いています。興味のある方はお読みください。なお、今日の題名「神の徳の充満」はスポルジョンの今朝の「朝ごと」から取ってつけました。私のこの小さな経験(実際には浦和家庭集会に行って、そこで経験したもう一つの出来事があるのですが・・)も神の徳の一つのあらわれと信じることができるからです。
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