2019年1月5日土曜日

主を愛する家族

2019年 賀状秀作
新年早々、悔いることがある。それは折角、家族が揃ったのに、その際お座なりの祈りをしてしまったことである。残念ながらこれが私の本質である。主を恐れずして、人を恐れる罪である。一組の子ども家族が信仰から遠ざかっているとは言え、私の子どもたち、孫たちであるのに、家長としてどうして彼らを恐れる必要があろうぞ。自戒を込めて、以下のみことばとそれに関連する文章を写してみる。

あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。(略)あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記11・8〜9、18〜20)

 われらクリスチャンは、このようなことばを実行しているだろうか? 神のみことばはわれらの心の中に、われらの家のうちに、またわれらの習慣のうちに、そのような地位を得ているだろうか? われらの家にはいる者や、日常の生活でわれらと接触する者は、神のみことばがわれらにとって最高のものであることを認めるだろうか? われらと働きをともにしている者は、われらが聖書の教えによって支配されていると見るだろうか? われらのしもべや子どもらは、われらが聖言の雰囲気のうちに生活し、われらの全性格が聖書によって形成され、われらの行動がそれによって支配されていると見るであろうか?

 愛するクリスチャンの読者よ、これは、われらの心をさぐる質問である。聖言をわれらの心から離してはならない。われらが神のみことばをいかに取り扱うかということほど、われらの道徳的、また霊的状態を正しく示すものは他にないとわれらは確信する。もし神のみことばを愛さないならばーー神のみことばを学ぶことを喜ばないならばーー神のみことばをかわき慕わないならばーーそれを喜ばないならばーー聖なる書き物にかじりつき、その尊い教えを飲みこむことができる静かな時間を望まないならばーーひとり一室にあって、また家族とともにいて、また街頭において、神のことばを深く思わないならば、すなわち、聖書の聖なる雰囲気を呼吸しないならばーー「われらはいつも聖書を読んでいることはできない」などと発言することができる心情ならば、その時こそ、われらは自分の霊的状態をよくみきわめる必要がある。というのは、われらは、悲しくも病的であるからである。神によって生まれた新しい性質は、神のことばを愛するーーペテロの第一の手紙第二章に、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(二節)とあるとおり、それを熱心に求める。

 これは真実な考えである。もし神のみことばである混じりけのない霊の乳を求めず、勤勉に用いず、それを熱心に飲んでそれに養われないならば、われらの魂は低い、不健康な、危険な状態にあるにちがいない。われらの行為には、外観上なんの誤りもないかもしれないが、また、われらの歩みにおいても主を公然と汚すこともないであろうが、しかし、われらは神のみことばをひどく無視することによってーーすなわちそれは主を無視するもう一つの方法であるがーー愛の満ちた主の心を悲しませているのである。もしわれらが神のみことばを愛することなく、またこれによって養われていないならば、キリストを愛する、と語ることは、愚の骨頂である。神のみことばが私室においても、家庭においても習慣的に無視されているところに、新しい生命が健康的で、良好な状態にあり得ると空想することは、妄想である。

 読者よ、諸君は一家の頭(かしら)であるか? もしそうならば、この問題についてあなたがたの考えはどうであるか? あなたがたの行動はどうであろうか? あなたがたは家庭において、毎日家族とともに聖書を読み、家族とともに祈りをしているであろうか? もしそうでないならば(わたしたちの質問を忍耐して聞いてください)、どうしてしないのか? この問題の本当の原因を捜し出して見よ。あなたがたの心は、神と神の道から離れてしまったのであろうか? あなたがたは密室で神のみことばを読み、祈っているだろうか? あなたがたは神のみことばと祈りとを愛し、それらの中に喜びを見いだしているであろうか? もしそうしているならば、あなたがたが家庭におけるみことばを読むことと、祈りを無視していることはどうしたわけか? おそらくあなたがたは、自身が神経質でおくびょうであるからと、言い訳をしようとするであろう。

 もしそうならば、あなたがたが自分の弱さに勝つことができるようになるために、主を仰ぎ見よ。あなたがた自身を神の誤りなき恵みに任せ、そして毎日定まった時刻に家族を集めて、聖書を数行でも読み、二言三言でも祈りをしなさい。もしあなたがたがこれをも最初なすことができないならば、家族とともに神の御座の前に、二、三分でも黙ってひざまずきなさい。一口に言えば、家庭での神への感謝、家庭でのあかしなら少しでもなすべきである。あなたがたの家庭の中での不信仰な不注意と祈りのない生活は、なんでも御免である。愛する友よ、この事についての勧めのことばを受けいれなさい。神は、信じてたよる心を決して失望せしめないから、今からすぐに、神に助けを求めることを始めることをお勧めする。家庭内で神と聖言とを無視することを、これ以上続けてはならない。それは真に恐るべきことである。

(『申命記講義』C.H.マッキントシ著大竹進訳87〜90頁引用)

0 件のコメント:

コメントを投稿