私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。(詩篇139・7)
第二段は7節から12節までで神の全存在を歌っています。
我いづこにゆきてなんぢの聖霊(みたま)をはなれんや
われいづこに往きてなんぢの御前をのがれんや
われ天にのぼるとも
汝かしこに在(いま)し
われわがとこを陰府にまうくるとも
視よなんぢ彼処にいます
我あけぼのの翼(1)をかりて海(2)のはてに住むとも
かしこにて尚なんぢの御手われをみちびき
汝の右の御手われをたもち給はん(7〜10)
神はエルサレムの宮にだけい給うのではありません。イスラエルの国だけにい給うのでもありません。また、この地上の世界にのみい給うのでもありません。われらの知ると否とにかかわらず、想像し得ると否とにかかわらず、到るところに存在し給うのであります。天にも地の底にも、東の端にも西の端にも、何処にでもいてわれらを守り導いて下さるのであります。
暗きはかならず我をおほひ
我を囲める光は夜とならんと我いふとも
汝の御前には
暗きものを隠すことなく
夜も昼の如くに輝けり
なんぢには暗きも光もことなることなし(11〜12)
何処に往っても、如何なる時も、神は常に変わり給わないのですが、変わるのは私共であります。ヨナの如く、神を逃れようとすることも度々あります。その結果「海の中心(もなか)に投げいれたまひて」と、暗黒の中に希望を失って叫ぶこともあります。されど神の前には暗黒はありません。イスラエル民族が出エジプトをした時、雲の柱が夜は火の柱となって輝いたように、われらを囲んでいた暗雲は、神の栄光に照らされると光となって輝くのであります。神がわからなくなるのは、神がわれらから離れ給うたからでなく、われらが神が離れたからであります。神にさえあれば、われらの逆境も苦難も病気も貧窮も、凡て栄光に輝くのであります。
註1 「あけぼのの翼」は太陽が翼をもって東の端から上り、西の端に翔(かけ)りゆくとの古代伝説から言う。
註2 「海」はここでは地中海を指す。当時イスラエル人は地中海を西の端と考えていた。
(『藤本正高著作集第3巻』279〜280頁より引用)
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