先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず・・・。(ヨハネ4・11
私たちは、イエス・キリストのすばらしさに触れる時、こう考える。「主イエスの理想は高く、私に深い印象を与える。しかし、実生活においては、それが実現するはずはない。」これは、謙遜の顔をした傲慢である。このような誤った見解は、私たちが神に自己を明け渡そうとする時の、「おまえはどのようにして生活の保障をしてもらうつもりか」という疑問から起こる。あるいは、私たちの抱えている問題が、イエスの手には負えないと思う気持ちから起こる。「主によりたのめ、というのは結構だ。しかし、人は現実に生きなければならない。しかもイエスは、くむ物を持っておられない。私に必要な物を与えるための、何の手段も持っておられない。」
私たちは自分にできないことをよく知っている。しかし、イエスについてはよく知らない。私たちに不可能なことが主には可能であるという考えが著しく傷つけられている。私たちの不安は、自分の知恵によって、主のなさることを探ろうとするところから生じる。私たちの疑問は、私たちの弱さの深みからわき上がる。イエスへの誤解の原因が私自身にあるとわかったら、主の前に出て、こう告白しよう。「主よ、私はあなたについて誤解していました。自分の知恵から目を離して、あなたの知恵を信じようとしませんでした。自分の限りある理解力を離れて、あなたの大能の力を信じようとはしませんでした」と。
( 『いと高き方のもとに』オズワルド・チェンバーズ著2月26日の項より引用。毎日胸ふさぐ日が続いている。昨日もその胸の内を友に訴えていたら、あなたはイエス様に頼っているのでしょう。それで十分じゃないですか、と言われてハッとした。そして今朝このチェンバーズの霊想を紐解いた。さらに紹介はできないが、スポルジョンの朝ごとは「救いは主にある」ヨナ2・9を全面的に紹介していた。交わりを通して、みことばと過去の聖徒たちの言葉を通して励ましをいただいた。)
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