2018年2月7日水曜日

天からのプレゼント

蠟梅に 嫗と祈る 至福あり

その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。(黙示録11:12)
 この言葉を預言的に考えず、私たちの偉大な先駆者がきよめられた民を招かれるものとして考えよう。時至れば、すべての信者に「天から大きな声が」聞こえ、「ここに上ってきなさい」と言うであろう。これは聖徒にとっては、喜ばしき期待の題目でなければならない。私たちが父なる神のみもとに行くために、この世を去る時が来るのを恐れるのではなく、むしろ解放の時を待ち望むべきである。
   我が心は御座にいますかたと共にありて
   時のいたるをひたすらに待ちわぶ
   「立ちて来たれ」との御声を聞くを
   かたときだにも待たぬ日はなし
 私たちは墓の中に呼びくだされるのではなく、空中に呼び上げられる。天で生まれた私たちの霊は、当然ふるさとなる空をなつかしむ。しかし天からの招きは忍耐深く待たねばならない。神は私たちに、「ここに登ってきなさい」と言う最善の時を知りたもう。私たちは強き愛に迫られて、次のように叫ぶであろう。
  「万軍の主よ、波は今あなたとの間をへだてるが
   やがて私たちすべてを、天に運び行かん」

 しかし、あくまでも忍耐しなければならない。神は精密な知恵をもって、あがなわれた者たちがいつまでこの地上にとどまるのが最もよいかを、定めておられる。実に、天に「後悔」が存在するとすれば、天の聖徒らはこの地上にもっと長く生き、もっと多くの善行をなさなかったことを嘆くであろう。ああ主の穀倉にさらに多くの収穫を積みたい。さらに多くの宝石を彼の冠に加えたい。しかしもっと長く働かないで、どうしてできよう。短く生きれば犯す罪も少ないという面もある。しかし私たちが心をつくして神に仕え、神が私たちにとうとい種をまかせられ、百倍もの収穫を得させられる時、私たちは地上にとどまるのはよいことですとさえ言うであろう。主の言葉が「行け」であろうと「とどまれ」であろうと、神の臨在が私たちとともにあるかぎり、喜びをもって受けよう。

(『夕ごとに』C.H.スポルジョン著松代幸太郎訳いのちのことば社1960年刊行より引用。今日から後期高齢者のお仲間入り、スポルジョンのこの勧めは私を喜ばせた。久しぶりにブログに掲載する気になった。)

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