2012年10月31日水曜日

単純かつ明白なわざ

クリスチャンのまずなすべき仕事は、だれの場合であっても、祈ることです。単純、明快です。ところが、ただ祈るだけでは足りないのではないかとわたしたちは思ってしまいます。神のためになにか大切なことをしたい、神にとって大切な人間になりたい、と思うのです。なにかを建設したい。人々を動員したい。わたしの力を示したい。影響力を行使したい・・・。そういったことに比べると、祈りはいかにも小さいことに思われるのです。ほとんど目にもつかない、小さいことに思われてしまいます。

けれども、イエスはそうは言われませんでした。イエスにとって、祈りはすべてでした。特権であり、同時に義務でした。責任であり、しかも権利でした。

祈りを最後の手段と考える傾向が、わたしたちにはあります。しかしイエスはそれを「戦い」の第一線に置くよう望まれました。ほかにどうすることもできないときに、わたしたちは祈ります。しかしイエスによれば、何をするよりも先に、まず祈るべきなのです。大部分の人は、すぐに結果を見ることができるような何かをしたがります。神にとって最もふさわしい時に、神が解決してくださるのを、わたしたちは待ちたくありません。神にとって「ふさわしい時」というのが、わたしの考えるふさわしい時と、あまり合わないことが多いからです。

そこで、わたしたちは神のお手伝いをしたがります。時には自分の祈りに自分で答えようとさえします。たくさんの人の目に神がよく映るようにすることができれば、もっと多くの人がクリスチャンになるのではないか、というようなことを考えます。そこで、神は祈りに答えてくださるということを証明して、神が寛大であられることを、人々に納得させようとします。神のイメージがもう少し立派なものになるよう手助けをすれば、もっとたくさんの人々を神の側に勝ち取ることができるのではないか。そして、神はそのことをわたしたちに期待していらっしゃる。そうではないか。

いいえ、そうではありません。神がわたしたちに期待していらっしゃるのは、祈ることです。いつでも祈り、そしてすべてについて祈るのです。喜びの時も、悲しみの時も、です。神について語るのではなく、神に向かって語りかけることを求めておられます。神のことを未信者に話すよりも、その前に彼らのことを神に語ってほしいと、神は思っておられます。

祈りは神がわたしたちに課しておられる日課ではありません。わたしたちのなすべき仕事です。なすべきただ一つの仕事です。祈りはわたしたちの聖なるわざです。単純で明白です。

(『「祈りの時」を変える黙想』のはしがきより。)

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(ルカ4・42、5・16)

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