2012年7月1日日曜日

神のあわれみの泉が湧き出た!


薔薇展 in Paris by Nobuo

神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。(旧約聖書 出エジプト2:24〜25)

 我々の祈りは、実に信じられないほど大きな働きをします。イスラエルは悲惨な奴隷の境遇に身を置いていました。その苦しみは言語に絶するものがあり、その存亡が危ぶまれていました。そこで民は、神が本当に生きておられ、救い主であることに心を留め始めます。「彼らの労役の叫びは神に届いた」ということです。それから、このことが起こったのです。聖書の記事には、あわてふためくような感じが表れています。

 まるで記者は、神のあわれみを描写することばを充分見いだせなかったかのように「神は聞かれ、契約を思い起こされ、ごらんになり、みこころを留められた」と語ります。これは我々の注目をひきます。なぜなら一般に、聖書はことばを切りつめて用いるので、もっと詳しく聞きたいな、と思うことがしばしばあります。例えば、あの十字架上の盗賊がイエスを信じたときの心境を、知りたいと思います。また、木に登ってでもイエスを見たいと思ったザアカイの場合も同様です。しかし聖書はそれを語ろうとはしません。ほんのわずかなことばで、必要最小限を伝えるのです。

 昔、オエインハウゼンで、治療効果のある温泉を求めて、あちらこちらを試掘しておりました。ある日ついに、ひとつの泉を掘り当てます。しかし、それが突然、猛烈に湧き出したので、設備はすべて飛ばされてしまい、人々は驚いて逃げ出しました。

 困窮した心が、呼ばわり、ため息をつき、叫ぶと、神のあわれみの泉は猛然と湧き出ました。神は聞き、契約を思い起こし、ごらんになり、悲惨に心を留めたもうお方です。この泉は、御子の十字架上で残りなく湧きあふれました。パウロも「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)と語っています。

主よ! あわれみに富むあなたを無視して、自分で人生をやっていこうとした我らを、どうぞおゆるしください。            アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳7月1日の項目より引用)

0 件のコメント:

コメントを投稿