2012年7月9日月曜日

あなたの御前にいます

「窓辺にたたずむハナ子さん」絵は友人のT.Sさんによる
「久しぶり」に家内と電車の旅をした。過去3、4週間の間に彦根に帰り、高山に行き、長野県の御代田に出かけ、とそれぞれ行をともにしているはずなのに、これは一体どうしたことかと振り返って見ると、確かに遠出の行を電車で共にしたのは数日ぶりなのだと思い至った。それもそのはず滋賀に帰る時、御代田に出かける時いずれも一人で出かけ、現地であとから来た家内と合流したのだし、高山への移動往復はバスであったからである。

 遠出と言っても、横川から高崎、高崎から大宮、大宮から家へと乗り継いだに過ぎないのだが、とにかく二人とも車内の家族の姿が目について仕方なかった。私たちはどうしてもそこに親子の信頼の情を読み取ろうとするからである。五人の子どもたちはそれぞれ自立した。私たちにとって、あっと言う間の子育ての期間であった。決して順風満帆な子育てではなかった。若い家族を見ると、かつての自分たちを思い出すが、親に全面的に信頼している子どもたちの姿や、懸命に子どもを何くれと配慮しながら楽しそうに会話を交わしている両親の姿を見ては人間生活の原点を見、もっともっと真剣であるべきだったと思う。

 子どもたちにとって決していい父親でなかった。それに比べ、妻は一生懸命子育てに尽した。それでも悔悟の情は沸き上がるのではないだろうか。電車で様々な人が乗り合わせるが二人とも決まって若い家族の微笑ましい姿を見つけてはほっとした思いで観察するのだ。一人で遠出するときも家族の姿に無感覚ではないのだが、二人でいると決まって目につき何かと二人で話をする。二度と帰って来ない子育ての期間、無我夢中だった期間を声にこそ出さないが懐かしく思い、若いご夫婦が懸命に子育てをされている様子を陰ながら応援したくなる思いにさせられるからだ。

 バスの長旅は長旅でいいものだ。それは窓外の景色を充分堪能できるからだ。しかし乗客は固定している。そこへ行くと電車という移動空間は乗り合わせという、人が入れ替わりする絵模様がある。そして、小なりとは言え人生の縮図を見せつけられる思いがする。以前にも書いたが漱石はいち早くこのような鉄道の導入により文明が日本人の内部をいかに浸食して行くかに着目しながら日本人の新生面を巧みに小説のプロットとして生かしている。『三四郎』だったように記憶する。けれども、そのような思いは漱石だけでなしに、近江兄弟社の創設者一柳米来留(メレル・ヴォーリス)氏にもあることを先年知った。(同氏の『失敗者の自叙伝』216頁参照)

 それはともかく端無くも今回の列車旅行のうちに私たち夫婦が見つけたのはそれぞれの子どもたちの確かな両親への信頼の姿の数々であった。幸いなことに口答えし、反抗的な子どもの姿をなぜか見ることはなかった。それは先頃拝見した一枚の油絵を思わせるものがあった。その絵には「画伯」ご夫妻が愛してやまない一匹の犬が描かれていた。その犬の仕草は子どもたちが親を見上げる姿に近似していると思った。(作者は別の視点で描かれたのかもしれないが・・・)

 これからも鈍行列車に夫婦して乗り続けたい。けれども子育ての苦労、亭主の尻拭いばかりしてきた妻が最近は鈍行は疲れると言い始めてきた。そろそろ夫婦健在で走り続けることの難しさを覚える年代に突入している。しかし、これまでも愚かな夫婦とともに歩いて下さった上なる主は変わらない。愛する主を見上げて、天の御国への旅路をともに歩むことの出来る幸せを心から感謝する。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。(詩篇131:1〜3)

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