オンタリオ湖畔 Tatsuko.S絵 |
私の主人は、中国語を習得するのが大の苦手でした。毎日、多くの時間をかけてまじめに勉強するものの、気の毒なほどはかどりません。主人は同僚と一緒に、中国語で説教の実習をするため、町の伝道所に定期的に出かけて行きました。ところがミスター・ゴーフォースは、もう一人の宣教師より約一年前に中国に来ているというのに、聴衆はその宣教師に、彼のことばの方がよく分かるから代わりに話すようにと頼む始末でした。
ある日のこと、いつものように伝道所に出かける前に、主人がこう言いました。「もし主が中国語を話す上で特別な助けを与えてくださらないなら、私は宣教師として失格するのではないかと思うよ。」
数時間経って主人は帰って来ましたが、その顔は喜びでまばゆいほど輝いていました。主人は、彼の話す番になった時、異常なほどの神様の助けを意識したと語ってくれました。一つ一つのことばが、これまでにないほど、はっきりと頭に浮かんできたと言うのです。しかも、彼の言ったことが理解してもらえただけでなく、何人かの聴衆はかなり心を動かされ、集会の後で、もっと話を聞きたいと言って来たということでした。主人は、この経験がうれしくてたまらなかったらしく、またこのことでずいぶん力づけられたとみえ、日記に詳しく書き記していました。
それから二ヶ月半ほどしてから、ノックス・カレッジの学生から一通の手紙が届きました。それには、ある特定の日の夕方、何人かの学生が集まって特別にミスター・ゴーフォースのために祈ったと書いてありました。そして、その時の祈りの力がいつになく強く、また神様の御臨在が鮮やかに感じられたため、その時間にミスター・ゴーフォースに何か特別の神様の助けがなかったかどうかを尋ねるためにこの手紙を書いているのだと言うのです。主人が日記を繰ってみると、学生たちの集まった時刻は、彼が中国語を話すのに特別な神様の助けをいただいた時刻と一致することが分かりました。
別に祈ろうという気持ちがわかないのに
遠く離れた友の思いが
ふとよみがえるのはなぜでしょう。
私たちは余りにも忙しいので
遠くにいる友と一緒に過ごした日々を
ついわすれてしまいがちです。
きっと神が、そうされるのでしょう。
だから神のシグナルを
祈りの合図として受け止めましょう。
きっとその時、私の友は激しい戦いの中に
肉体の弱さ、勇気の喪失、暗黒
道を踏みはずす危険の中にあるのです。
彼が私の祈りを必要としているので
私は神に促されて祈るのです。
(『祈りは答えられた』ロザリンド・ゴーフォース著湖浜馨訳26〜28頁より。ゴーフォース夫妻は1888年から約30年間中国河南省、湖南省常徳を中心に働きました。これはその初期の記録です。彼らはカナダ・トロントから派遣されて出かけましたので、恐らく表出の絵の湖はおなじみであったのではないでしょうか。それにしても主のみわざは素晴らしいですね。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」ローマ8:26〜27)
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