使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。(新約聖書 ルカ24:11)
我々にとって、ここは重要な場面です。最初のイースターの朝早く、弟子たちは戸を閉ざし、息をひそめていました。
すると荒々しいノックの音がします。みんなは一瞬、息をのみました。—大祭司の捕縛隊ではないか? 主が十字架につけられたうえ、我々も同じ目に遭うというのか?
ノックは一段と強くなりました。それから女の声が聞こえます。ひとりの弟子がそっと戸を開けます。よく知っている女の顔が、そこに並んでいました。興奮して女たちは叫びます。—「イエスのお墓が空です。御使いが、主は生きておられる、と言いました。」「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われた。」
私はこの場面を想像します。ヨハネがばかにしたような笑いを浮かべて、「また女のおしゃべりだ」と言います。マタイは耳をふさいで、「そんなばか話で、我々の苦しみを茶化す気かい?」と言い、ペテロは立ち上がると、女を外へ締め出してしまいます。
この知らせを耳にすると、知性は必ずそのような反応を示します。—「人がよみがえる! 大ボラもいいところだ。」
こうして、かわいそうな女たちは戸の外に出されてしまいました。彼女らはうちのめされて、しょんぼりと立ち去ったでしょうか? 正直言って、クリスチャンは時に、人々が知性を根拠にメッセージを拒むと、萎縮し、狼狽することがあります。
けれども—私は確信するが—女たちは笑ったことでしょう。「イエスさまが生きておられるのを本当に見たら、この人たち、びっくりするでしょうね。」彼女らの笑いは勝利を表しています。そして、イエスの弟子たる者はみな、ベンヤミン・シュモルクの詩のように、「義しき者の住み家には、/もう勝利の歌声が響きわたる・・・」と歌い、信じることができます。
主よ! 盲目のこの世にあって、我らにいつも確信を与えてください。
アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本紘訳4月11日より引用。ヴィルヘルム・ブッシュ氏は4月の全日をとおして復活の主についての聖書よりのメッセージを載せている。ルターは『イースター・ブック』〈新教出版社〉で次のように書いています。「(よみがえられた)主がまずマグダラのマリアに、つまり女性にあらわれたもうたということは深く考えるべき事柄です。・・・福音に耳を傾ける人間の典型が女性であるということは、大いなる慰めです。御言葉を聞いた女性たちのうちには、悪魔のすべての攻撃にびくともしない、御言葉からひきだされた大いなる力があったのです。・・・かの女たち自身は弱くても、かの女たちが聞いた御言葉は死と罪の縄目を断ち切る力をもっていました。」挿絵は同書所収より。)
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