けれども彼の新しい生活方式はすぐに4人の上海の教会の長老たち、チュー・チェング、ツ・チェンチェン、ユー博士、あともう一人のもはや名前のわからない人に疑念を抱かせた。彼らのウオッチマンのイメージは傷つけられてしまい、今では彼らの目には背教者と映った。また、比喩を代えるならば、畦道から振り返っている田舎者となった。彼らはそのような人はみことばを伝えるのに適しているのか、と問うのだった。だから1942年の終わる少し前に、彼らは彼にウェン・テー・リ(Wen Teh Li)での説教はやめるように要請した。思いやりのある人であるユー博士が自分自身で説教から即座に退いていたので、異議を唱えた可能性があるにもかかわらずである。
ウオッチマンは落胆し、どうすべきかわからなかった。「私はうらやましい、」とC.L.ユィンに、一緒に福建のおいしいオレンジを分け合って食べながら言った。「あなたは工場内でしたいことをやる自由があり、その時、集会に出かけて行き、二言三言、言うなら、あなたは大変熱心な兄弟だと賞賛されるでしょう。誰もあなたのことを問題にはしないでしょう。ところが私はどうでしょうか。一日の24時間、彼らは私がどのように自分の時間を使っているか正確に知ろうとしています。私は注意人物なのです。」
普通の信者にとって自分たちの長老たちの行動のショックは大変深刻で、知らされていることよりももっと厳しい背景があるという憶測を引き起こしたのも不自然ではなかった。他人の不幸を願う者たちはウオッチマンが世間の人々とともに昼食をとっている仕事を問題にし指摘した。その手の人々は過去においてウオッチマンの証がよく実を結んだ人々であった。責任ある兄弟たちが沈黙を維持したので、彼は彼と一体となっている証が疑問を抱かれていると感じた。それにもかかわらず、ウオッチマンに依存しているたくさんの働き人のゆえに、彼には踏み出した道を捨てる自由はなかった。続く二年間のうちに彼らが彼にどんな取り組みをしたかは明らかでない。一方ウオッチマンはマーガレット・バーバーが彼の長広舌に直面したときに示した柔和さを思い起こした。そしてもう一度、彼は自己弁解をしようとせず、ご自身の方法で自らの義をあらわされる神からの訓練として、人々の自らに対する行動を受けとめた。
当然のことだが、仕事の面でウオッチマンを活発に助けていたチャリティーはこの態度をすぐには理解しなかった。ある日、彼女はウオッチマンが先方で声が段々大きくなっていく電話の呼びかけに答えているのを聞いていた。ウオッチマンはそれに対して全部、ただ聞くだけで、たまに「ハイ、・・・ハイ、・・・ありがとう、・・・ありがとう」と答えていた。「あれは一体誰だったの」と彼女はウオッチマンが電話を切った時、尋ねた。「私がやってきたことは全部間違いだと話す兄弟だったんだ」「あなたは、そのことに全部、責任があるの?」と彼女は尋ねた。「いいや、」と彼は答えた。「それなら、なぜ、あなたは『ありがとう』と言うかわりに説明しなかったの」と我慢できなくなって叫んだ。
ところが、「もし誰か人がニー・ト・シェング(Ni To-sheng 註:ウオッチマン・ニーの中国名)を天にあげるまでほめそやしても」というのがその答えだった、「彼は依然としてニー・ト・シェングである。また誰かがニー・
ト・シェングを地獄に突き落とすまでこき下ろしても、彼はニー・ト・シェングのままだよ」
神様は正しいお方である、彼にとってはそれで十分だった。いかにも彼らしいのだが、ウオッチマンは彼に反対していた兄弟たちの数人に対して秘かに財政面の援助を与えていたことが知られている。
(『Against
the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL
p.172~173より。)
キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。(新約聖書 ローマ15:3)
感謝です。
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