2012年4月10日火曜日
わが師わが兄、沢崎堅造(上) 飯沼二郎
林西は曠野の果ての町であった。はじめて満州家屋に住まれた。一家四人、荷物を土間に一杯おき、三畳位の「こう」の上に本棚とストーブをおくと、真っ直ぐに寝ようとしても、頭が土間に出てしまうので、足をまげて寝なければならないといった状態であった。林西教会では、毎日曜日、伝道説教の奉仕をされた。伝道説教というのは、毎日曜日、午前九時から二時間、教会の門戸を開け放して、大衆に信者が交替で説教するのであった。「礼拝はそのあと、夏でも冬でも十一時から始まってだいたい一時頃終る。」と夫人は記しておられる。「説教はないが毎週聖さん式があった。正面の机の上にパンというよりも白い丸いおせんべいのようなものと、ブドウ酒とがおいてあった。十一時になるとあつまってきた人が、誰がいうともなく、唱詩○○というと、みんながその賛美歌をうたい出す。そのうち誰かがお祈りする。また誰かが聖書をよむ。つづいて祈る人があり、唱詩という人がある。そのうち、田長老が立ってパンとブドウ酒をわけられる。また何人か祈りがつづき、賛美歌をうたい、自然に終りがくるのである。本当にみ霊にみちびかれた礼拝であった。『よくあんなにふかい祈りが次々できるものだ』と主人は感嘆していた。」
「また毎週、家庭集会があった。(中略)家で集会をしたこともあったが、そのときは麻油の灯の蕊を五、六本皿のまわりに出し、あかりを明るくする。みんなそのまわりに顔をよせ、大きな活字の聖書をよみ、それについて語り、また祈るのである。それは何か使徒時代を思わせた。集う人達は使徒時代さながら、身分の高い者、権力のある者、教育のある者はなかった。しかし顔は生々としたよろこびにかがやいていた。家庭集会も司会者があるわけでなく、みたまに感じた者が祈り出して始まるのである。
普段たずねてきて下さっても、『沢崎先生在家昵○』と、声をかけて入って来られると、挨拶などせず、すぐ祈りがはじまるのである。それが挨拶であった。カンの上で主人と話しておられるかと思うと、急に形を改めて祈りとなる。何と純粋な祈りの姿であろう。私はそういった祈りの姿に、どんなに不純な心を正されたことであろう。」
沢崎さんは、林西でも相変わらず東の山へ祈りに行かれた。ときには望君をつれて行かれることもあった。帰ると食事をされ、午前中は聖書の勉強、午後はそれ以外の研究をされた。聖書の勉強はヘブル語、ギリシャ語の原語の意味をしらべ、その意味からみ言葉が何を語り給うかを考えるといったやり方であった。たとえば、イザヤ書三十五章などの「曠野」という言葉は「語る」という動詞から出ている。人の「語る」の聞えぬ曠野がどうして「語る」という言葉に通じるのか。曠野は人の声は聞えぬが、神の声を聞くところなのだ、そういった解釈をされた。・・・
(『新の墓にてーキリスト教詩文集ー』沢崎堅造著322頁以下から引用。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。〈イザヤ35:1〜3、5〜6、8〜10〉)
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