2012年4月9日月曜日
新(あらた)の墓にて 沢崎堅造
この静やかな心
丘の上にて
青空に 陽は輝き
牛群は 一瞬動かず
天国の影
わが児新(あらた)の墓は
見はるかす丘の麓
草畳み 海の如し
一盛りの土塊
木標細し
牛の群 取巻き
土を掻き 角をこする
木標折れざるや
されど我は心楽し
昨日は 小羊の跡一面
土塊は遂に無くなり
或るは草地と化せん
されど 我は楽し
林西の西の山
墓標は東に面す
何か 東山の
伊藤君の墓と向ひ合す心地
旅に出でし時
母に抱かれて 我を送りたりき
我は顧みざりき
そは基督の道をゆくものなれば
最後の五分間
東門の漸く見えしとき
疲れし我は我を励したり
知らず、 我が家には
死にし児待てり
白き棺を央にして
人々は重なりて祈り居れり
我は そと入りて
祈りの中に感謝したり
蒙古伝道—
それは余りにも重々しき言葉
小さき旅に
小さき死が 供へられたり
愚かなる父を励ますため
この児は 死を以て
再び帰へることなきよう
我が脚に 釘打てり
涙は湧かず
ただ堅きものが
胸も顔も蔽ひたり
単り離れん
あまりにも奇しき
厳しき 神の御旨よ
粛然として襟を正すのみ
伝道とは 天国の業なり
基督と共に
基督の中に
ああ基督に包まれて
何処までも 何時にても
何事が起きても 心安けし
天国は 静かに近づき
わが世に 垂れ交わる
きよき、温き、心は充つ
基督と聖徒とわが児はあり
文は書けず
書は読めず
祈りも ただ黙するのみ
僅に 基督の生命 湧き上る
天国の便り
これを想ひ これを述べん
十字架は
天国の窓なり
「復活在我」
「在基督裏 新造的人」
木標の両面に
風冷し
(『新の墓にて』沢崎堅造著未来社刊1967年270頁より引用。沢崎堅造と言っても知る人は少ないであろう。戦前京大人文科学研究所の嘱託のまま、単身蒙古伝道に献身し、敗戦直前に蒙古の大板上で消息を絶たれた方である。「在基督裏 新造的人」とは恐らく「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)であろう。)
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とても感動した。主にある僕として殉教された沢崎宣教師の宣教スピリットを私も受け継ぎたい。
返信削除今日、このコメントに気づきました。読んでくださりありがとうございました。あなた様も「新」さんなのですね。
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