(それは)1529年の夏のことである。英国は長らく不和であったフランシス一世及びチャールズ五世と、平和回復の商議をカンブレ—に開くこととなった。その会議にトマス・モーアとタンステルも出席した。そしてこの会議で締結された条項の一つには、相互の国に流布を目的とする異端の書物の印刷を、互いに取り締まることというのがあった。これはチンデルの書が大陸で印刷されることを禁ずるために、特に提出されたのであった。
これに成功したタンステルは、帰路わざわざ迂回してアントワープに立ち寄った。そこには当時チンデルがいて、英国に聖書を送り込む本拠地としていたからである。彼はここで聖書を買い占めれば、これを絶滅するのにより効果的であると考えた。それで彼はそこで出会った英国の商人パッキングトンに、もしここでチンデル訳の聖書を手に入れることができれば、いかなる代価を払ってもよいと言った。ところがこの商人は以前よりチンデルを尊敬していた人である。
彼は「あるオランダ人がその聖書をたくさん持って売りたいと言っているのを知っています。もし御必要なら全部買い占めて参りましょう」と言った。監督はそれを聞いて非常に悦んで「それなら是非その全部を買い占めてくれ、代価はいくらでも出す」と言った。そこでパッキングトンは、早速チンデルを訪ねて「貴殿は非常に貧乏しておられますが、一つこの聖書を全部売りませんか、よい買い手がありますが」と言った。
チンデルは不思議そうな顔をしていたが「その買い手は誰ですか」と尋ねた。「買い手はロンドンの監督タンスルです」と商人は答えた。「やあ、彼は私の聖書を焼くために買うのです」。「たしかにそうです」。そこでチンデルはしばらく考えていたが、微笑しながら「おお、それは嬉しいことです。私は全部売りましょう。それは二重の恩恵です。私は借金から救われ、全世界は神の言葉を焼くことに反対の叫びを挙げるでしょう。そして私はその余分の金でもっと勉強して今度はより立派な訳を出します」と言った。実直そのもののごときチンデルにも、かかるユーモラスな一面があったのである。
タンステルは鬼の首でも取ったように悦んで、英国への何よりの土産としてその聖書全部を持ち帰った。そうしてパウロ十字街で、公衆の面前においてそれらの焚書を行なった。ところがそれによってチンデルの予想したごとく監督たちに対する国民の反感は増して、チンデル訳の聖書は益々有名になった。そして数年後には、より立派な版がどしどし英国に輸入された。そこでタンステルは非常に憤激してパッキングトンを呼んで詰問した。彼は「私はたしかにあの時に全部を買収したのですが、彼がなお原稿と原版を持っていて再版したのでしょう。何ならその原版を買収なさったらさらに効果がありましょう」と答えた。
監督はただ苦笑するのみであったということである。その後仲間の一人であるコンスタンが捕えられて、「誰がチンデルに再版の資金を提供したか、それを告白せよ。そうすれば釈放する」と訊問された。そのとき彼は、「その資金を提供した人は、この世界中の誰でもなくロンドンの監督その人です」と答えたということである。
(『藤本正高著作集第三巻』454〜456頁より引用。文中チンデルとあるのは「ティンダル」監督とあるのは「主教」である。『言語変容の基礎的研究』寺田正義著の労作によると英国欽定訳聖書はその80パーセントが「ティンデル訳聖書」に即していると言うことだ。上記のエピソードは藤本氏が「ウイリヤム・チンデル伝」として昭和11年〈1936年 〉という日本が思想統制のもと大きく日中戦争へと舵を取りつつあった時に出版されたことも覚えるべきであろう。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」新約聖書 マタイ10:16)
時期にかなったメッセージ、主の導きを覚え心から感謝いたします。
返信削除ブログを投稿した私自身がいつの間にか忘れてしまっていました。チンデルの働き、また藤本さんがこの本をあの時期に翻訳した慧眼に敬意を表する者です
返信削除