2012年4月23日月曜日

働きながら、人々を支え、みことばを伝える

 彼の弟であるジョージはセントジョン大学出身の化学の学士だったが自らの実験所を持つ化学研究者として独立していた。彼はまた上海に製造・販売の薬品会社、ニー・ブラザーズを設立していた。その会社に家族のうち何人かが出資していた。ジョージは先生であって、実業家と言うより、科学者であったので、商売は繁盛していなかった。しかし、ウオッチマンはここには何か可能性があると見ていた。特性は非軍事であったが、戦時の必要を満たしたのでまだ将来性のあるものとして存続できた。

  1938年のずっと以前、ロンドンでウオッチマンは、弟のスルファニルアミド製造の特許を獲得する件に関して助言を求めたことがあった。今や彼は高品質の合成医薬品の製造のための同族会社を提案する考えを抱き、化学者としての弟の経験を用いて、余剰利益を主の働きのために運用して行こうとした。そのようにして中国生化学実験所(CBC)は上海のキアオチョウ通り(Kiaochou Road)に誕生した。支配人としてウオッチマンは香港からC.L.ユィンを招聘した。彼は数年前には廬山サナトリウムで患者であった時はウオッチマンの(主の)証を拒んでいたが、ジョン・サングをとおして主に心をとらえられたばかりであった。まず取締役会会長として、ウオッチマンは経営は(他の者に)まかせ、ただ事業計画に目配りをするだけであり、仕事の打ち合わせに出席するためには現代風の正装に身をすべりこませ、それが終わると普段の服に着替え、古びたスローチハットをかぶっては聖徒を訪問するのであった。

 彼のもっとも親密な友達でさえ彼の外見上の方向転換に当惑させられた。フェイスフル・ルカはどのようにしてダビデ・タンとフィリップ・ルアンと一緒にウ オッチマンとチャリティーが住んでいるユーフア13番別荘の簡素な家庭を訪問したかを語っている。夫妻は暗幕カーテンをつるし、窓に細長い布を貼り付け、 ほとんど暖房のない部屋に座っていたのだが、そこで彼は多くの人が知りたがっていた質問をした。なぜあなたは神の働きをほったらかしにして商売に一生懸命なのか。「私はパウロがコリントやエペソでなしたことをしているにすぎません」と彼は答えた。「仕事は例外的なものであり、パートタイムです。一日に一時間会社の販売員たちの訓練のために時間を割くが、その後は主の働きをしています」そして販売員たちは忙しい「使徒たち」であり、彼らは今や福音の証と賃金雇用を一致するように励まされた。しかし彼は友人たちの質問に追いつめられて、悲しそうに付け加えた「私は夫を失った未亡人のようです。(宣教)財政の必要のために働きに出かけなければならないのです」

 しかし意義深いことは彼はのちに貢献することになる道理を認めた。すなわち日増しに増す退屈であった。才気ある人として彼は恐らく二流のものに悩まされ、もっと大きな精神に入れ替わる刺激が失せていくのを感じたことだろう。その時の彼の悩みは古くからある無感動の罪(sin of accidie)と見なされるものかも知れない。「聖なる訓練の侮蔑、人の告白の嫌悪・・・詩篇が今まさに歌われようとしているときに、折悪しくあくびをもってその詩を妨害するようになるような特殊性」したがって彼の反応、 すなわち最初は反抗、そしてそれからは逆境にあっての不動はチョーサーの療法の光のうちに説明され得るものである。「この無感動というひどい罪とその同じものから発する感情に反して、堅忍不抜と呼ばれる徳があります。この徳は人々に自らの意志という厳しく最悪なものを、賢明に理性的に引き受けさせるものです」

(『Against the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL p.170~172より。訳していて後半は残念ながらほとんど意味が分からない。チョーサーのカンタベリー物語の「牧師の話」が下敷きになっているのでその話をよく読めばわかるようだ。)

自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。・・・あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。(新約聖書 使徒18:3、20:34)

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