2012年4月12日木曜日
わが師わが兄、沢崎堅造(下) 飯沼二郎
蒙古語の勉強もはじめられた。いろいろの準備をされて、(昭和)19年5月、蒙古伝道者の李達古鐸氏とともに、深く蒙古人地帯に入り込んだ。「初めての蒙古地帯の伝道旅行、日本里にして約百里を、毎日徒歩しました。生涯初めての感謝と苦痛の旅行でした。文字通り、使徒時代の旅行です。二枚の下着をも持たずを実行しました。蒙古犬にやられましたが、幸い大丈夫でした。ゲートルがやられて、脚は助かりました。云うことの出来ない三週間の旅行でした。」と昭和19年6月6日奥田氏あて書簡に記されている。このときの旅行の詳細を記したものが「巴林伝道記」である。蒙古人ひとり一人にイエスの愛を伝えるべく、村から村へ、包から包へと困難な砂漠の旅をつづけていく二人の伝道者の雄々しい姿が、生々と私たちの胸に伝わってくる。汚い着物で態度も粗暴だが、何ともいえない心安さをもつ多くの蒙古人、ひとたび病気になれば、一切の医薬をもたず、ただ病臥するほかはない無知で貧困な多くの蒙古人、しかも貧困のなかに心から客人をもてなす多くの蒙古人に、沢崎さんは心からの愛情を注ぎ、一方、そのような現状になんら救いの手もさしのべずに、ひたすら安逸をむさぼっている喇嘛僧たちに、烈しい怒りを記しておられる。
私は、とくに、次の一節を引用せずにはいられない。それは、沢崎さんが、偶然、お茶を馳走になった茶碗が、梅毒で鼻の落ちた貧しい若い蒙古人のものであったことを知ったときの感想である。「彼の茶碗を、こちらの習慣に従って洗いも濯ぎもしないで、そのまま汚れたままで使ったのである。併し私は感謝の心が湧いて来たので、私自身が喜んだ。私はこうした機会を計らずも与えられたのだ。願っても叶えられないことだ。伝道の旅に出たればこそ、この深い味わいを得たのである。私は独り草の上に仰向けにひっくり返った。大空は真っ青で、眼に染み込むようだった。私の眼は思わずもうるんだのであった。」これほどまでの無私の愛がありうるということは、私にとってほとんど奇蹟に近い。
こうして、疲れ切って林西に帰りついた彼を待ち受けていたものは、愛児の死であった。次男新君は、沢崎さんの留守中、あの地方特有の猛烈な風にあてられて肺炎を起こし、必死の看病もかいもなく、彼の帰る前日、天に召された。ちょうど納棺式の最中で、皆が祈っているときだった。彼は黙って皆の中に入り、満語で祈りを捧げた。「蒙古伝道は余りに困難。しかも自分は余りに無力。自分をはげます為に此の子は召された。神の御旨は余りにくすしい。今、自分の心は感謝で一杯である」と(夫人の昭和20年6月奥田氏あて書簡による)。 その夜、沢崎さんは、愛児の遺骸の横に、その手を握って寝た。翌日林西の西山で火葬にした。その翌日、親子三人でその場所に行ってみられたが、「我々は皆、満州の土になるのだから」といって、骨は拾われなかった。後日、西山に墓標を立てた。沢崎さんはそれまでは毎朝、東山で祈っておられたが、以後四キロほどある西山まで、毎日、出かけて祈るようになった。このとき、つくられた詩がある。私は、近代日本の文学のなかで、これほど深く、キリスト・イエスにたいする愛と献身とをうたい上げたものを知らない。日本のクリスチャンが生み出した最高の文学の一つといっても、決して過言ではないであろう。
(『新の墓にて』324〜325頁、所収。昨日、43歳で召された主にある聖徒の葬儀があった。愛の満ちあふれる葬儀であった。本日の主題である沢崎堅造氏の年譜には「1945年8月3日退去命令により家族、大板上を去る。後に残った堅造は、ソ連の参戦により脱出不可能となり、最後がよく確認されないまま、間もなく殉教したとみられている」とある。38歳であった。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」新約聖書 ヘブル11:4)
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