西海国立公園、南九十九島の眺め(by N.Yuguchi) |
そこで、祭司たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスが盗んで行った。』と言うのだ。・・・』そこで、彼らは金をもらって・・・。
(新約聖書 マタイ28:12〜15)
兵士らが受け取った金は、途方もない額であったでしょう。
「これはぼろいもうけだよ。俺たちにはどっちみち関係ないことを、少しごまかせばよいのだからな。」
自分らが滅びを買い取ったとは、思いもよらぬことでした。
弟子たちは、「イエスはよみがえられた」と至る所に告げ知らせました。当局が禁止しても、ニュースは広がる一方です。ついにエルサレムでは迫害が始まりました。が、逃げた人たちが、国中にニュースをばらまきます。そうして、復活の主はパウロの目をも開かれました。そのパウロが、「イエスはよみがえられた」というニュースをローマにまで運んで行きます。イエスはたちまち話題の焦点となりました。
幾たびとなく兵士らは呼び止められ、「君らが墓の番をしていたんだろう。では本当はどうだったんだ」と尋ねられたことでしょう。そのたびに、彼らは笑って言ったにちがいありません。—「ああ、あのイエスかい? やつはもちろん、死んださ。」だが、その唇はこわばっています。本当のことを知っていたからです。
自分の認識と良心に反して生きねばならぬ人生、それは地獄です。ある人が私にこう言ったのを、忘れることができません。—「私は聖書に書いてあることをみな信じています。が、社会的地位の都合上、公に告白することはできないのですよ。」
そうやって生きていくのでしょうか?
イエスは生きています、と信じるのであれば、我々は主のものとなって、主のうちに見いだしたものを恐れずに語ろうではありませんか。
この兵士らに比べ、弟子たちの姿は対照的です。彼らは迫害にもめげず、真理を表明しました。
主よ!
「真理を我らに告白せしめよ。
真理は喜びと自由を与えたゆえに。」 アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳5月1日より引用)
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