2012年5月18日金曜日
『人は死んだらどうなるか』S.D.ゴードン著山田和明訳
原題はQuiet talks on life after death。この書物は新書版で238ページの本であるが、6つのテーマに分かれている。(1)死、人生の果てしない悲劇(2)神との交わりを 持って死んだ人々について(3)神との交わりを持たずに死んだ人々について(4)私たちは死者と交わりうるか(5)死とは何か(6)死後ほかに救いの機会はあるか。
聖書全巻を通して積極的に人の死について語られるこの本は一級の書だと思う。著者は1920年にこの本を著しており、第一次世界大戦の悲惨な戦死者を前にして書かれたようだ。しかし、1936年にはすでに亡くなっている著者は第二次世界大戦を知らない。ましてや東日本の震災に喘いでいる日本社会は知る由もない。しかしこの方が中心に据えられている神様、イエス様はすべて御存知である。創造主がいかに人間一人一人を愛されているか、そしてそれは人間一人一人の自由意志を尊重するものとしてあらわされているかが最後まで諄々と語られている本である。残念ながら邦訳本は絶版で手に入らないと思われる。英語のできる方は以下のサイトでご覧になってはいかがだろうか。(http://www.archive.org/stream/quiettalksaboutl00gord#page/n5/mode/2up)
以下にこの本の末尾の文章「愛は決して絶えることがない」をそのまま引用する。(なお文中の「蓋然性」ということばは私にはわかったようでわからない。「必然性」という言葉と対比して読めば良いのではないか。原文はlaw of probabilityである。)
このように、この権威ある聖書は、神を離れること、また、神の支配に対して大胆に敵対することを主張する者には、恐ろしい最後の結末があることを、非常にはっきりと述べている。聖書は、物事を記述する場合、非常に明確な方法をとっている。聖書は、最もすぐれた意味において、普遍的な書物である。それはもちろん、東洋的な書物である。と言うことは、聖書はあらゆる所の一般大衆の書物であると言うことと、同じである。
東洋的な思想と表現の様式は、実際に精密なものである。すなわち、一つの瞬間を中心にして描写を集中する。最後の決定的な結果について述べるが、結果に至るまでの過程については、言及しないのである。
西洋的な表現法の特徴は、それとは違い、洗練された学問的方法である。
聖書の方法は、大衆の一般的な方法とは明らかに区別される、と言うことができる。聖書の方法は、過程というものを中心とする。結果に至るまでの過程を、分析し、批評する。それは、物語を一連の段階において表わす映画のフィルムのようなものである。
聖書の構成においては、東洋的な様式が用いられているうちにも、明らかに、神の知恵と洞察のしるしがある。というのは、その思想と表現の一般的様式が、単に東洋世界だけのものであるばかりでなく、更に広範囲に、あらゆる所の大衆の一般的な方法でもあるからである。
したがって、聖書は、まれに見る知恵をもって、世界じゅう至る所の一般の人々が直ちに理解することができるように書かれている。聖書は、最後の結末のことを述べている。そして、その過程について、この本の終わりの部分で学ぶ事柄がその結末である、ということがわかる。それは、蓋然性の法則についての専門家たちによって導き出された結果である。この昔ながらの聖書の記述が、まれに見る正確さと、深い人間的な知恵をもってなされたということは、その過程を学ぶ者に、深い感銘を与える。
聖書の単純で驚くほど積極的な言葉に、耳を傾けなさい。「信じないもの(または、不信仰の者)はのろわれる(または、罪に定められる)」(マルコ16:16)。「御子を信じない者(または、御子に従わない者)は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。「そして彼らは終わりがない(または、永遠の)刑罰を受ける」(マタイ25:46)。これらの言葉は、この聖書の権威ある宣言である。これは、人間の蓋然性の法則と十分に一致するものである。
そして、聖書の最後のページには、勧めの言葉がある。これは、死んで下さったかたによって語られたものである。イエスは、熱心に語られた、「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と(黙示22:17)。
自分のむすこを全く献身的に愛した、あるフランス人の母親の物語がある。むすこは情欲の野火にとらわれ、その炎は赤々と燃え上がった。彼は非常に美しい、しかし全く無情なある女性に、とらえられてしまったのである。母親はむすこを、愛をもってしっかりと守り、嘆願して、離そうとしなかった。悪い女は、自分が全く母親の感化を取り除くことができないので、腹をたてた。そして、おりあしく、そののろいの気持ちが強くなった時、青年に、母親の心臓を持って来ることを約束させたのである。
この物語は、青年がその約束を守ったことを述べている。彼は、母親の心臓のはいった包みを腕にかかえて、悪い魔女との約束を果たすために急いでいた。彼はつまずいて倒れた。すると直ちに、彼のよく知っている声が、優しく気づかうように語りかけたのである、「わが子よ、けがをしませんでしたか」と。そこには、とがめだてるような響きはなかった。ただ愛のみ—愛による心づかい、朽ちることのない献身的な愛のみ—があった。
これは、伝説的な物語である。確かにそうである。しかし、生きた物語である。この物語は、ほんとうの母親を描いている。青年は、母親を殺すことはできたであろう。しかし、母親の愛とその声を消すことはできなかった。母の愛とは、この世における人間の愛のうち、最も偉大なものである。このまことの母親の心は、神の心に最も近いのである。
神は、ご自分の創造された子供が苦しむ時には、いつも苦しまれる。神は地獄に行こうとしている人のために、本人が苦しむ以上に苦しまれる。人の鋭い良心の痛みを感ずる力はだんだんなくなってゆくが、苦しみそのものは強くなってくる。すると、神の苦痛は増してゆく。しかし神は、ご自身の苦痛を和らげるために、人間の最高の力である自由選択の権利を、奪おうとはされないのである。
神の愛は、決して絶えることがない。絶えることができないのである。そして、永遠に絶えることはないであろう。
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