2012年5月23日水曜日

ふさわしい祈りを求めて

カーネーション、ありがとう!こんなに見事に咲いたよ!!

 昨日は10度寒くなると言われ、喘息を持つ家内を家において、ひとりで火曜の学び会に出かけた。一日不思議なことばかりであった。第一は当日のメッセージが「祈りが聞かれない理由」であった。これって前日このブログで載せさせていただいた記事のもう一つの答えでないの、と思わされたからである。よくは読んでいなかった昨日の記事を写してみる。

 神が祈祷に答え給うことに疑いはあり得ない。この点について聖書は十分に明白に語っている。これほど明瞭なことは他にあり得ないことである。凡ての人はいつでも、いかなる場所でも、また凡ての必要のために、祈るべく命ぜられている。祈祷が聞かれるとの確証は、豊富である。約束は鮮明であり、聖書は実例と激励に満ちている。「凡て求むる者は得」るとはキリストご自身の言である。(マタイ7:8)。約束の範囲についていえば場所について(テモテ前2:8)、時について(ルカ18:1、テモテ前4:17※)、また題目について(ヨハネ16:23、マタイ21:22、ピリピ4:6)も限界はない。人にかかわる事はみな神の御関心事であり、正式に祈祷の題目なのである。神は我らの必要を聖なる事と俗なるものに分類し給わず、霊的なものと物質的なものを区別し給わないのである。我らの罪の赦しのために祈るべく教え給うた御方は、また「我らの日用の糧を日毎に与え給え」とも祈るべく教え給うたのである。

 然しながらこの題目を我らが学ぶにつれて、条件や限定づけがされている事が明らかになって来たのであった。祈祷には法則があるのである。制限なき約束が、諸条件にとりかこまれたものであったのである。・・・
(『祈祷の小径』183〜184頁より。※この個所はない。なお英文原稿http://www.raptureready.com/resource/chadwick/chadwick16.htmlにあたってみたが邦訳者のミスでもない。)

 昨日のベックさんのメッセージでは、まさしくそのものずばりの条件7つが語られた。すなわち祈りが聞かれない理由は①不従順(マルコ6:5〜6など)② 隠された罪(詩篇66:18など)③無関心(イザヤ62:6〜7など)④聖書をおろそかにする(箴言28:9)⑤強情(ゼカリヤ7:11〜13)⑥心の不安定(ヤコブ1:6〜7)⑦不純な動機(ヤコブ4:3など)の7つであり、その裏返しがそのまま聞かれる条件であるからである。

 主の御心は永遠のいのちにある。永遠のいのちにあずかるためには何としてもこれらの7つの項目は妨げになる。家族の救いは主の約束であるが、それは家族との妥協によるのではない。イエス様ご自身が家族を退けられた(マタイ12:46〜50)。その実が結んだのはイエス様の死後であった(使徒1:14)ことを指摘された。救いはひとりではなく、全家族である。そしてそれは私たちがみことばに聞き従うかどうかが大切であり、私たちがあれをするこれをするではない。主が何をしてくださったかが大切だと冒頭語っておられた。

 第二はこの集会の後、三人の方々との不思議な交わり(その内には、みことばだけを求めて、どなたの知り合いもないまま、初めて出席され、どういうわけか私に声をかけられ、近くのレストランでお交わりすることになった初対面の方との出会いもあるのだが)を体験させていただいたことである。そしてそれらはそれぞれ祈りのうちに結び合わされている事柄、そしてこれから祈り始める事柄に満ち満ちていたのだ。第三は帰って来て、夜、家内の親友から、交わりのうちにあった一人の方が天の御国に凱旋されたニュースを知らされた。ご主人は今回召された奥様を看病する中で病院で洗礼を受けられたことを前に聞いていた。柔和なご夫妻の笑顔を思い浮かべ、慰めと大いなる祝福を祈った。主のなさる事は不思議である。

 最後に昨日の集会メッセージで引用された聖句を載せる。

いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。(新約聖書 使徒10:33)ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。(使徒16:31〜34)

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