ティンデルの口からLord・・・the king ofの文字が。なぜかopenが削除! |
前にも述べたごとく、チンデルを救助せんとの試みが各方面よりなされたが、すべては無効に終わって、いよいよ彼は裁判の結果死刑に処せられることとなった。しかし彼の中には、かつて彼がフリスにあたえた信仰の励ましを、今や自らに与えて言い知れぬ悦びをさえ感じていた。この地方では異端者の処刑は、アナバプテスト以外のものは、一度絞殺して後に火で焼くことになっていた。
彼は城外の広場に引き出された。中秋の陽は静かに彼を慰めるごとく照っていた。広場の周囲には柵がめぐらしてあって、一般の人はその外から見物することになっていた。広場の中央には十字形をした処刑柱が立っている。その柱の先には鉄の鎖がついていてそれから絞首するための索が下がっている。そしてその処刑柱の下には柴がうず高く積み重ねてある。
用意が万端整った時、検事総長をはじめ裁判官たちが入場した。彼らは処刑柱の側に設けてある席についた。それが終わるとチンデルが静かに獄卒に導かれて現われた。処刑柱につく前にしばらく祈ることが許された。彼はいまや肉体の口を通してなす最後の祈りを捧げんとするのである。彼の口からは突然力強い言葉が迸り出た、
「主よ、英国王の眼を開き給え」と。
この言葉は英国王に対する皮肉でも恨みでもなく、心から母国と国王の真の幸いを祈ったからである。祈りが終わると彼は処刑者によって柱に縛りつけられた。鉄の鎖は彼の首を動かさないためにその周囲に巻かれ、絞首索は輪にして締める準備がされた。それが終わると、藁束が高く薪のまわりに積み上げられて、チンデルの帽子が少し見えるぐらいまでになった。かくて準備が終わると検事総長の合図にしたがって、処刑者はあるだけの力をもって絞首索を締めた。そして全く息絶えた時、検事総長自ら薪に火をつけた。火焔は見る見る中に高く上って、チンデルがただ福音を証するためにのみ用いた肉体は、今や全く灰に帰してしまったのである。時は1536年10月6日の金曜日であった。
「彼らは私を焼いても、私が予期する以上のことは何もなし得ない」とは、彼がこの死刑を受ける八年前に言った言葉であった。その言葉が的中しているか否か、今日の我らには明白である。真理の言葉は如何なる暴力をもっても蔽うことが出来ない。彼の働きが如何に偉大で如何に不滅なものであったかは今さら言を要しない。
彼死してすでに400年の星霜が流れ去った。「生命の国に到るには、キリストの例に倣って苦痛の迫害と受難を、しかり、死の迫害と受難を通る以外に道はない」と言った彼の言葉が、今もなお新しく耳底に響いてくる。
(『藤本正高著作集第三巻P.567~569。チンデルの英訳は今日の英国欽定訳聖書にそのまま残っている。彼が命をかけて訳した聖書は今も金字塔のごとく私たちにも語りかけている。最後に彼の訳を英文で紹介しておく。I am the good shepherd. The good shepherd giveth his life for the sheep. An hired servant, which is not the shepherd, neither the sheep are his own, seeth the wolf coming, and leaveth the sheep, and flyeth, and the wolf catcheth them, and scatterth the sheep. The hired servant flyeth,becase he is an hired servent, and careth not for the sheep. I am that good shepherd, and know mine, and am known of mine. As my father knoweth me; even so know I my father. And I give my life for the sheep: and other sheep I have, which are not of this fold. Them also must I bring, that they may hear my voice, and that there may be one flock, and one shepherd.〈『ウイリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』P.559所収〉ヨハネ10:11〜16である。彼の英文訳を通してそれまでラテン語訳でしか、しかも実際はそれでさえ良く読もうとしなかった、あるいは無視していたカトリック教会聖職者特権階級に代わって、現実に市井の民が逐一その聖書を自国語で読めるようになったのである。これは実に画期的なことである。なおその翻訳の際、いかに彼が当時の英国庶民少年にまでわかる言葉やまた韻を踏んでの訳し方をしようとしたかは上掲の書が丁寧に証明している。なお本日と昨日の掲載写真はいずれも上掲の書からお借りした。)
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