五旬節の日になって・・・。(新約聖書 使徒2:1)
これは注目すべき表現です。
「五旬節の日が来て」ということですが、直訳すれば「・・・の日が満ちて」となります。これは、何を言わんとするのでしょう?
神がこの日をすでに世界の始まる前から定めておられた、というのです。そして、神のお定めになった待ち時間が済んで、聖霊が世界においでになられたのだ、というのです。
これは、神がいかにご自分の計画に忠実なお方か、をあらわしています。
人間的な愚かな言い方をするなら、こんなことになるでしょう。—「もし我々が神であったなら、我々はこの日を延期したであろう。なぜなら、状態としては極めて不都合な時だったからだ。」
つまり、当時はローマが強大になりつつあり、政治問題が人心を占領していた時期です。いったいだれが聖霊に関心を抱くでしょう!
では、神には、ご自分とともに働く正しい人々がいたのでしょうか。それは有名人ですか。霊的に秀でた人たちだったでしょうか。いいえ。ほんの一握りの、無学な、臆病な漁師らと取税人—それが主の意のままになる人々だったのです。
「五旬節の日が満ちて」神は、ご自分の力強い良き御霊をお送りになりました。神はご自分の計画に忠実でありたまい、我々の助言を必要とはなさいません。神はご自分の道を行かれます。そして、たといほとんどの人が聖霊を心に留めようとしなくても、神は義に飢え渇く者たちには聖霊をお与えになります。また、たとい権力者らが世間に騒ぎを巻き起こそうとも、神は、静まって待ち望む者に御霊を注がれます。
神は、ご自分の計画のままに、事を行いたまいます。 「五旬節の日が満ちる時」、「すべては時間どおりに成就する。/神がひとたび我に定めたもうたことならば。」
主よ!
我らに、あなたのご計画とみわざとを、
何よりも大切なものとさせてください。 アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳5月20日の項より引用)
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