チンデルは様々な友人たちの釈放の願いにもかかわらず、どれ一つとして実現せず、英国ならず大陸の法廷で異端者として審問されるのである。以下、藤本氏の『チンデル伝』の記述を続ける。
かくチンデルにとっては凡てが不利であったが、彼はそんなことは心にも留めず、牢獄にあってもなお福音のための戦いを続けていた。それは彼を裁判する委員の一人で、ルーバン大学第一の学者であるジャーク・ラトムスとの論争である。もちろんチンデルは獄中にあったので、自分の意見を自由に発表することは出来なかったのであるが、裁判の関係で度々ルーバン大学教授たち、特にラトムスと論鋒を交える機会があった。そしてそのチンデルの言った意見を、そのラトムスが発行した書物によって知ることが出来るのである。その論点はやはり信仰によって義とされることの問題であって、今まで度々チンデルのこの意見を紹介したのであるが、彼が獄中にありながらも、如何に強くこの信仰を高唱したかを知るために、今その二、三を引用する。
聖書の救拯の知識の鍵は、これである。すなわち我らの何らの行為なくとも、基督を通して、神はすべてのものを我らにあたえるのである。換言すれば、イエス・キリストを通してあたえられる神の恩恵に基づく信仰が、キリストの功と行為によって、我らの勲功や善は問題とされず、ただそのために我らを神の前に義とするのである。
木に生(な)った実は、その木を善くすることも悪くすることも出来ず、ただその木が善いか悪いかを知らせるのみである。同様に行為はその人を善くも悪くもせず、唯それによって他の人に、その行為をなした人が善人か悪人かを知らせるのみである。神の前に人が内面的に義とされることは、ただ信仰のみによる。行為は彼の義を人の前に知らせ得るのみである。
何事をなすのも神の恩恵である。彼なしには我らは如何なることもなし得ない。それは神の働きである。我らはただ道具にすぎない。我らは神から報酬を受ける資格がない。それを得るために勲功を主張することは出来ないのである。
行為は律法が我らに要求する最後のものである。そしてその行為は神の律法を満たすことが出来ない。我らの行為において我らは常に罪を犯しつつあり、我らの思想は不純である。律法を満たすところの愛は、我らの中にあっては氷よりも冷やかである。それゆえ我らが肉において生活する間、律法を満たすものはただ信仰のみである。信仰によって我らは世に勝つ。何故なら、悪魔のあらゆる誘惑に打ち勝ったキリストの愛が、我らのものとされるところの、イエス・キリストを通しての神にある信仰が、世に勝つ勝利であるからである。それゆえに凡ての信ずる者を確実にするのは信仰である。それは律法の行為によっては、如何なる人も神の前に義とされることが出来ないからである。
パウロは、ローマの獄中からピリピの信者たちにむかって、「兄弟よ、我はわが身にありしことの反(かえ)って福音の進歩の助となりしを汝らが知らんことを欲するなり。即ち我がなわめのキリストの為なることは近衛の全営にも、他の凡ての人に顕われ、かつ兄弟のうちの多くの者は、わがなわめによりて主を信ずる心を厚くし、おそるることなく、ますます勇みて神の言を語るに至れり」(ピリピ1:12〜14)と言っている。
チンデルにとっても約一年五ヶ月の獄中生活は、福音の進歩の助けとなったのである。学者たちは彼の真理の言葉に耳を傾けなかったけれども、貧しい看守人たちが信仰に動かされたのである。フォックスは、彼の看守をしていた獄卒とその一家が真の信仰を得たことを記し、また他の彼の獄中生活に交渉のあった人は誰でも、「この人が真のクリスチャンでないなら、誰も真実の人ということは出来ない」と言ったということを書いている。それのみでなく、彼を審くべき立場にあった「血に飢えたる野獣」と綽名された検事総長さえ「彼は最も学識のある、善良な、また敬虔な人である」と言ったそうである。かつて主イエスを審いたピラトは「われこの人に咎あるを見ず」と言った。しかるに主は十字架につけられ給うたのである。今またチンデルも万人の尊敬の的となっていながら、死刑に処せられることとなった。しかし彼の血潮もこの世界に光をもたらすために必要であったのである。
(『藤本正高著作集第三巻P.563~565より引用。この法廷でのチンダルが用いた方法についてディヴィエド・ダニエルは彼が公証人と弁護士を一人提供されたが、それを断ったとして、次のように書いている。「自分の返答は自分でなすことを選んだのである。・・・すでに12年も危険な亡命生活の貧困の中で、彼は聖書の真理によって生きてきた。聖書の真理が彼の翻訳と著作の仕事を絶対的な献身と全き誠実さをもってなすようにしむけて来たのである。その聖書の真理は低地地方〈netherland〉の一地方の不規則な法廷で法律の抜け穴を探して言い訳するようなことではない。それは聖書そのものであり、神ご自身の言葉である」〈『ウイリアム・ティンダル』ダニエル著田川訳P.636〉まさしく上述の弁明こそチンダルの聖書に基づいた生きた言葉Sola fides justificat apud Deum〈神のもとでは信仰のみが義とする〉であった。)
看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。(新約聖書 使徒16:29〜31)
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