長野県御代田(2012年5月5日) |
癩病の初めの兆しは肉の皮が落ちるということです。(レビ13:2)イザヤ3:9をご覧なさい。癩病がありますならば必ず皮に現われて参りますのと同じように、人に罪があれば、必ず顔色にそれが現われるものです。それですから、その人がその状態から解放されるためにはまことの祭司であるイエス様のもとに行かねばなりません。けれども当人がそのことを望まないのです。主の前に出ることを望まないのです。けれども主のところにいくことは恵みを受け、自分には不可能なことから解放される奇蹟を経験できるのですから、そういう人は断固として神に探っていただく道を取られたほうが良いのです。
詩篇19:12、ヨハネ2:25が明らかにしていますように、私たちの祭司である主は私たちの心を知っておられます。生まれながらの性質をご存知です。だから主に心を探っていただくことです。自分で自分の心は探ることは出来ません。他の兄弟も私たちの心を探ることは出来ません。祭司の長である主イエス様がそれを探って私たちにその罪を悟らせて下さるのです。ヘブル4:13、黙示録1:14をご覧なさい。
私たちは絶えずこの主のところに行って自らの心を探っていただくのです。罪を犯しましたら、心が汚れていましたら、主イエス様の光の中に出て主の導きを受けることです。主はそれをしてくださるまことの祭司です。主イエス様が祭司であるとは、まず私たちと聖い神様との間を取り持って下さる方だということです。それから祈って下さるお方です。しかしそれだけではないのです。その務めに罪人の心を探ってくださる大切なお働きがあります。主イエス様だけが私たちの心を探り、私たちの本当の姿を悟らせて下さるのです。だから主の足元に行ってこのお方に心を開いて探っていただきましょう。
愛する兄弟姉妹よ、あなたは自分の考えで自分を裁かないようにしなさい。どうか主の足下に近づいて聖書の光の中で主の診断を受けなさい。祭司である主イエス様はあなたを聖いとおっしゃいますか、それとも汚れた者だとおっしゃいますか。これは実に厳粛なおことばです。私たちは一人一人この祭司の前に自らを探られるのです。祭司は今日あなたを聖いとおっしゃいますか。それとも汚れた者とおっしゃいますか。
私どもは今聖書の明らかな光の中で判断されました。愛する兄弟姉妹よ、主があなたに向って聖い者ともしおっしゃいますならば感謝して信仰に堅くお立ちなさい。けれども主があなたに向って汚れた者だとおっしゃるのなら、恐れをもって主の聖さといやしをお求めなさい。そうしていただく機会を持たれないならば、その病気はますます悪くなって滅びに至ってしまいます。速やかに主のみわざを求め、主の証を聞いて神様の前に聖い者として立たせていただきなさい。
(『レビ記講義』ビ・エフ・バックストン講述P.134~135より編集。 同書は明治37年初版なので、引用者が今風に表現を変えた。)
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(旧約聖書 詩篇19:12〜14)
0 件のコメント:
コメントを投稿