チンデルがこの獄中にあった時に書いた手紙が今日遺っている。これは彼の筆蹟を示す唯一のものである。彼の書いた多くの書物や手紙は、今日印刷として遺っているのであるが、この手紙のみは彼が書いたそのままである。この手紙には日付も宛名も書いていないが、1535年の冬、この地方の長官であるベルヘン・オブ・ゾームの侯爵、アントワーン・デベルゲスに宛てたものとされている。この侯爵にはクロムウエルも、チンデルに対する特別の取り計らいを願って既に手紙を出していたのであった。今日遺っているチンデルのこの手紙は、全文ラテン語で書かれたものである。今その全文を引用する。
貴下は小生に関して決定されたことを御存じと拝察致します(ブラバンドの会議において)。それ故に主イエスの御名において、つぎのことを貴下の長官としての御職務に訴えたいと思います。即ちもし、小生がここ(フィルフォルデ)でこの冬を過ごすようで御座いますなら、検事に依頼して彼の手許にある小生の荷物を送らせては頂けないでしょうか。
小生はいつも頭が冷えて非常に苦しみ、そのために絶えず感冒にかかるのですが、獄中においては特にそれが烈しくなりますので温かい帽子を欲しく思います。また小生は只今非常に薄着をしていますので温かい衣を得たく存じます。また長脚絆をつぐための小さな布片も欲しく思います。私の上衣もシャツももうボロボロに破れてしまいました。彼は私の羊毛のシャツを持っていますので、もし彼に深切があれば快く送ってくれると思います。また彼の許には厚い布の、上に着る長脚絆も、夜かむる温かい帽子もある筈です。
そしてまたできるなら夜燈火をつけることを許可して欲しいと思います。暗い中に独り座していることは実に退屈です。しかしこれらにもまして貴下の御厚情に訴えたいことは、検事が至急私にヘブル語の聖書、文法書、辞書をもつことを許してくれることです。私はここでそれらを勉強したいと思います。
その御努力の酬いとして、貴下の霊魂の救いのために常に変わらずに備えられている、貴下が最も親しく求めておられますものを得られるでしょう。しかしもし冬の終わる前に、私に対して他の決定がなされますならば、私は忍耐致します。私は主イエス・キリストの恩恵の栄光のために、神の御旨のなるのを待ちます。主の聖霊貴下の心をつねに導き給わんことを祈ります。 アーメン。
W.チンデル 我らはこの手紙を読んで、かつてパウロがテモテに書き送った「汝きたる時わがトロアスにてカルポの許に遺し置きたる外衣を携えきたれ、また書物、殊に羊皮紙のもの携えきたれ」(テモテ後4:13)の言を思い出すのである。「我はいま供え物として血を注がんとす、我が去るべき時は近づけり」と言ったパウロがすぐその後でかく書物を要求しているのである。死を覚悟しながら、獄中の不如意な生活の中に、一語でも多く旧約聖書を研究したいと願ったチンデルの真情と自ずから相通ずるものがある。チンデルはこの獄中においてなおも旧約聖書の英訳をつづけて、歴代志略の終りまで訳了したと言われている。そしてその訳はアントワープにいるジョン・ロジャーズの許に送られて、彼によってさきの五書や新約聖書とともに発行された。『マシューズ・バイブル』として知られているのはそれであると言われている。
(『藤本正高著作集第三巻』P.566~567。いよいよ藤本氏のチンデル伝もあと残すところ一回になった。日本人の手になるこのチンデル伝が1936年に出版されていることは意義深い。この二月には2.26事件が起きている。藤本氏はチンデル没後400年を意識してチンデル伝を物したが、それだけではないだろう。一方、その後1994年には生誕500年を記念してロンドン大学の教授としてシェークスピア研究に携ったDavid Daniell氏が『ウイリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』を著した。チンデル研究は進んでおり、この大部の著書から教えられること大であるが、小とは言え、私は藤本氏の著書の方を愛する。参考までに、獄中の手紙の田川氏による邦訳を以下に載せる。
閣下は私に関して決定されたかもしれないことについてはご存じないことはないと思います。そこで閣下(your lordship)に、主イエス(the Lord Jesus)にかけて、お願いしますが、もしも私がここで冬を過ごすことになるのだとすれば、私の財産を担当官が持っておりますので、担当官にそこから暖かい帽子を一つ送ってくれるよう頼んでいただけないでしょうか。頭が非常に寒いので困っております。また常に風邪に悩まされていて、この独房にいると風邪がどんどんひどくなります。ですからまた暖かい外套を一つ送らせて下さい。私は非常に薄い外套しか持っておりません。それからまた私のズボン下につぎをあてるために布を少し。私の外套はすり切れています。シャツもまたすり切れています。彼は毛のシャツを持っていますから、送る気になれば送れるのです。彼のところに私のもっと部厚い布のズボン下もあります。またもっと暖かいナイトキャップもあります。
また、夜にランプを使う許可を出して下さるようお願いします。実際、暗闇の中で一人で座っているのは、いやなことです。しかし何よりもまず、閣下の善意にお願い申し上げます が、 急いで担当官に、私にヘブライ語の聖書とヘブライ語の文法とヘブライ語の辞書を許可してくれるようおっしゃって下さいますように。そうすれば私は勉学することで時を過ごせますから。そのお礼に、あなたの望まれるものは何でもおわたしします。それはあなたの霊魂の救いのためになりますでしょう。しかし私に関して何かほかの決定がこの冬以前に実行されるように決められたのでありましたならば、神の御意志を待ちつつ、我慢いたしましょう。我が主イエス・キリストの御恵みに栄光あれ。キリストの霊があなたの心を導いて下さるよう(祈ります)。)
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