2012年5月25日金曜日

「一丁目一番地」とCD

 今週の火曜日に学びと同時に一人の方が証してくださった。その日はちょうど奥様が25年前に受洗なさったと言われた。そして、ご自身がその後どうして主イエス様を信じたか一つ一つ不思議なことを、すなわち全然主イエス様を求めようとしなかった自分があれよあれよと言う間に、主を信ずるに至ったかを証してくださった。そして結びに「今日は自らの救いを中心に証しましたが、その他渡米、失職など身辺にまつわる過去21年間の歩みを一々語るなら語りきれません。まさしくヨハネが言う通りです」と最後に以下の御言葉を読まれた。

イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:25)

 お聞きしていて、さもありなんと思って聞いていた。ところが昨日二三時間の間に私が経験したことも全く主イエス様のみわざとしか言えないことばかりであった。実はその前の日から、一人の方にCDをお渡ししようと祈っていたのだ。その方とはここ10年ほど会っていず、お宅がどこなのか覚えていない人だった。

 ただかつて散歩途中にその方と同じ苗字の表札の家を見つけて所在を知っていたので、見つけるのは楽勝だと思っていたが、中々見つけられなかった。それでもあっちこっちうろついてやっとその家を捜し当てることができた。ところが玄関の扉が閉まっていて生憎不在のようだった。ポストに入れようとしたが筆記具がないため、これは説明も書けず、まずいなと思い始めた。

 でも鍵は閉まっているようにも思えないので、もう一度挑戦してみたら今度は難なく開いた。玄関先の呼び鈴を押してご挨拶したら、見掛けぬ方だった。「こちらは○○さんのお宅ですか」と念を押してお聞きしたら「違います」という返事が帰って来た。とんだ勘違いに初めて気づき「申しわけありません」と謝り、そのお宅を辞去した。私が自信をもって、○○さんのお宅だと思いこんでいたのは、飛んでもない見当違いで苗字は同じだがその方とは縁もゆかりもないお宅だったのだ。

 これでは、番地を知らないし、探しようがないなとは思いながら、またその附近の表札を頼りに歩き回っていた。その後、5分ほどしてか、近くを子ども連れの若い女性が通りかかった。横顔を見ると○○さんの知り合いでもあり私の知り合いでもある方だった。これはいい助け舟だとばかりに、彼女なら分かるはずだと教えを乞うた。「ここじゃなくって、向こうの方だ」と弧を描いてくれるのだが、彼女もくわしい場所は知らないようだった。それでもありがたかったので、ありがとうと言いながら、気を取り直して今度はそちらの方を一軒一軒探したがそんな調子で見つかるはずがなかった。

 やはり無理だ、図書館にでも行って地図を見て調べるしかないと観念したが、図書館までは遠いし、行くまでに閉館するだろうし、行ってまた戻って探すのも大変だと思い、20年ほど前にお宅を伺ったかすかな記憶を頼りに、原点に帰って別の方角から探すことにした。そしてその附近をまた一軒一軒探していたら、今度は別の通りがかりのご婦人がどなたか家をお探しですか、と深切にも声をかけてくださった。「○○さんです」と申し上げたら、「ああ、○○さんですか、次の角を曲がったところ、そうそう家の前に車のあるお家ですよ」とおっしゃった。

 その奥様にお礼を申し上げる間もなく、その方面を見たら、○○さんが玄関を出て今しも車に乗ろうとされているところだった。駆け寄り、ご挨拶した。10年ぶりくらいだったろうか、ちょうどお出かけの時だったので路上でお話をし、件のCDをお渡しした。

 もちろん、心は天にも昇る思いであった。何しろCD をお渡しできますように、という祈りをささげていたからである。それにしては、番地も確かめず、家に投げ込もうにも説明するための筆記用具も持たず極めて不十分な出で立ちであった。それにもかかわらず奇蹟とも思えるその○○さんと玄関先でお会いしCDを直接お渡しすることができたのであった。

 それに私が○○さんの家を探している途中に、実はもう一人の不思議な出会いを体験させていただいていたのであった。それは私のかつての教え子で、今は二児の母親になっている方との10年ぶりの再会であった。そしてその立ち話の間に10年前に知らなかった事実が彼女の口をとおして明らかにされたのであった。教え子も私もお互いに顔をほとんど知悉していないと言ってもいい時間の空白があったのにだ。そしてそもそも○○さんの家はほとんど出かける寸前までは、その前にお訪ねしお交わりするご夫妻に依頼してCDを渡す計画であった。ところがどうしてもご夫妻が渡してくれないかも知れないと思い始め、ご夫妻の家を辞去してから自力で無鉄砲にも家を探すと言う不確さになった事情があった。

 そして冒頭では省いたがもう一つ大切な祈りをささげていた。それはそのご夫妻との交わりを主が祝福してくださるようにという短い祈りであった。(けれどもここ何年も祈り続けていることであった)ところがその日はご夫妻とともにその件のCDをお聞きし、主のみわざを素直に双方で認め合い、喜ぶことができるように、今までのお互いの関係を一歩前へ進めてくださっていたのだ。

 これらすべてのことを通して私がすべて主イエス様がそうしてくださったと言うのも無理からぬことと御承知願えることであろう。まさにこんなことを一々書き上げていたらヨハネ、また今週証をしてくださった方ならずとも、私もまた、時間も、書くスペースも足りないだろう、と言わずにはおれない。

 ところで件のCDとはそれぞれお父さんがアルコール中毒から救われて召された証や友人が末期がんの闘病の中で主を信じて天に召された喜びと自身の信仰の確信をそれぞれ短く証された20分足らずの話を収録したものである。

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