小海線沿線の畑のデザイン(7月下旬) |
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。(新約聖書 マタイ21・10)
この方は、どういう方なのか—これは大問題です。
この問いが発せられると、たちまち大混乱が生じます。「彼は俺たちと同じ人間だ」「彼の謙そんの教えは、ヨーロッパの不幸だ」「彼は神の父性愛を見いだした宗教的天才だ」「彼はまことの人間の原型だ」「彼は・・・」「彼は・・・」。
しかし、イエスの実際の生涯に触れる勇気を、人は持っていません。
しかし、ここに注目すべき、ただならぬことばがあり、それが柵のように我々の道をふさぎます。それは「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17・3)ということばです。
永遠のいのち! それは神から来るいのちであり、我々のたましいの慕ってやまないいのちです。このいのちは、いかなる死によっても奪われないいのちであり、また、「この方は、どういう方なのか」という問いに答えを見いだすかどうかにかかっているいのちです。
それはまるで、霧の中から突然、目の前にひとりの人が姿を見せ、初めはぼんやりとしか見えない、というようなものです。こっけいなろばにまたがり、それでいながら威厳を保って進むのです。少しずつ姿を現し、彼は今や、処刑された犯罪人のように、青ざめて血を流しているのが見えます。それなのに、彼は神々しい光を放ってさえいます。「この方は、どういう方なのか。」
彼に対する信仰を言い表して、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と申し上げたのは、まことに聖なるひとときであったでしょう。イエスはこれに答えて言われました。—「あなたの理解力ではなく、天にいますわたしの父が、そのことをあなたにお示しになったのです」(マタイ16・17参照)。
主よ! 我らに光をお与えください。 アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著/岸本綋訳 9月19日より引用 。今日の夕刊には「『イエスに妻』初の文献か」、とニューヨーク発の特電が掲載されていた。一方、連日中国人民の日本企業に対する暴行が報道されている。悪は野放図のごとき感がある。しかし、主なる神であるイエス様はいずれのことがら(自らに対するとんでもない冒瀆、また罪に支配されている暴力)も御存知であり、じっと忍耐しておられる。誰や知る!いのちの与え主、主イエスを。)
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