2012年9月25日火曜日

あなたはどんな引き算を知っておられますか?

モネの庭(フランス・ジベルニー 12.8.4) by K.Y 
大分、涼しくなった。それとともに頭も少しずつ回転するようになった。一方、連日尖閣諸島の問題は目を離せない状況である。久しぶりにテレビを見る機会が多くなった。でもテレビだけでは何となく物足りない。ここは落ち着いて新聞を読みたくなる。新聞を読みじっくり考えたいからである。その余慶か、日頃見ないでいた新聞記事まで目が及ぶようになった。

今朝の朝刊は隅々まで読んだ。そんな記事の中に「『妻を亡くして』を連載して」と題する記者の記事が目にとまった。(東京新聞、杉戸祐子記者)歌壇のおしどり夫婦であった永田和宏氏が奥様である河野裕子さんを亡くした悲哀を描いて、夫婦のあり方を問うた内容であった。

「あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふあなたの椅子にあなたがいない」(「いない」の「い」は旧仮名)

「君に届きし最後の声となりしことこののち長くわれを救はむ」

いずれも永田氏の歌であるが、前者は言うまでもなく妻を亡くした歌人の喪失感を表現している。それに対して、後者は、その喪失感を埋め合わせて十分なる河野氏の息を引き取る瞬間であったと述べ、記者は次のように書いている。

最期の時、永田さんの呼び掛けに、河野さんはもう一度息を吸ったという。別離の瞬間の描写だが、生きる救いが詠まれていることに、多少なりとも安堵するのは私だけではないだろう。記憶は残る者を苦しめもするが、救いともなる。どんな夫婦も、実は引き算の時間を生きている。何も、誰もが常に別離を考えて悲観する必要はない。ただ、時にはささいな日常を慈しみ、夫婦の記憶を積み重ねる大切さを感じた。

またキャプションの文章として次の文章を載せている。

風景は変わらないのに、一人足りない。当たり前に続くはずの日常に大切な人がいない—。妻に先立たれた男性の喪失感を主題に、生活面で「妻を亡くして」を連載した。当事者に聞くと、想像した以上の慟哭と、夫婦の固い結び付きがあった。

考えてみると、昨日私は高崎横川間の乗車を述べるにあたって、後半で得々と夫婦が同じ側に座っていることを語った。しかし、言うまでもなく、その夫婦もいずれは別れねばならない。まさに永田氏の言によれば、「引き算」の時間を生きていると言える。なぜなら日一日と夫婦が一緒にいる時間が少なくなるからだ。

しかし果たしてそうだろうか。永田氏も記者も死後の世界を信じておられないからやむを得ないが、聖書は死後の世界があるとはっきり述べている。永遠のいのちについて確信をもって述べている書である。もしその視点でものを考えれば「引き算」は成り立たなくなる。死後妻に先立たれた夫はまた天の御国で再び会えるからである。むしろ残された夫は指折り数えて妻がいる天の御国に自分がいつ入れていただけるか待つことができるからである。

「引き算」は 引き算だが、未来に向けての引き算になる。現在、過去の妻との生活が少なくなるという引き算ではない。永遠に向けての引き算である。再び昨日の拙い論考の結論を引く。主を信ずる者は永遠のいのちを持つのである。そしていみじくも今朝の火曜のベック兄の学びは、ずばりそのことに触れたメッセージであった。その話の中でも引用されたが二人のことばを引用したい。

一人はベックさんの娘リンデが20歳で癌で召される時に残したことばの一つ

人格者とは、死を直視することのできる人。(『実を結ぶいのち』66頁より)

あともう一つは、軽井沢のある人の墓碑に記されていたと紹介されたことば

「この世を去ってキリストともにいることのほうがはるかにすばらしい」

最後に今朝の学びで引用された聖書のことばを書く。

今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(新約聖書 ローマ8・1)

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・38〜39)

生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1・20〜21)

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