他郷にいる身として、帽子をやや目深にかぶり、素知らぬふりをしながら、惣菜の買い物に出かける。故郷の風情は40数年の間にすっかり変わったかの如く映る。しかし、故郷の人々はそこに今もいる。
数十歩前に近くの年少の友がいるのに気づいた。近寄り、帽子を目深にしたまま、「こんにちは」とあいさつする。先方は一瞬誰かといぶかる。しかし、次の瞬間「ひろっちゃん?」と満面笑みを浮かべて私を認めてくださった。
五つぐらい歳下であろうか。「お元気で(なによりで)」と言ってくださった。私は微笑むばかりで、曖昧な感情を残しつつその場を立ち去った。胸の中はキューっとしめつけられるようで、心の中に何か切ないものを感じさせられた。
「あなたは、どうして福音を伝えようとしないのですか」と問われる思いがしたからである。
ベックさんの「すぐに起こるはずのこと」をこの地で読んでいる。そこに以下のことが書いてあった。
この故郷にいるたくさんの義理のきょうだい、またいとこ、友人に、主の愛を伝えていない。話しても馬鹿にされると自己保身の思いがあるからだろう。こんな惨めな者に主はとりなしの祈りを勧めていてくださる。ああ! その後に愛の労苦が続くのだ!
「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩篇2・12)
0 件のコメント:
コメントを投稿