緑陰、浅間山麓にて |
エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。(詩篇122・3)
「よくまとめられている」ことは、生ける神の教会において、常に大きな意味があります。神がお与えになった最初の律法の中に、すでに「最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし・・・」(レビ23・7)とあり、また、初代キリスト教会については、「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし・・・」と記されています(使徒2・42)。
教会史の中で、「よくまとめられる」ことの価値を立証すると思われる時代があります。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、これまでのやり方で迫害するのを断念しました。そうして、それぞれ自分の信仰に生きてもよいと布告します。ただし、クリスチャンが集会を持つことはまかりならぬ、と付け加えます。
これまで圧迫に圧迫を加えられてきたキリスト教会が、この条件をのまないはずがあるでしょうか。
ところが、長老たちは一致してこう言います。「我らイエスの弟子にとって、ともに集まることは霊的いのちの一部分なのだ。我々としてはともに集まるほかない。それは、死んでよみがえられた主への信仰を固くし、互いに訓練しあい、共に賛美し、祈るために必要だ。」
信仰者がともに集まることは、命令であるばかりか、喜びであるべきです。イスラエルの民が神の祭りのためにエルサレムにやって来たとき、彼らは歓声をあげつつ、「エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている」(二節)と、この詩を歌います。
こんにち、個人的なキリスト教というようなことがもてはやされる風潮があります。それはうまくいかないでしょう。そんなことをすれば、信仰も愛も死に果てます。
主よ! 我らに 神にお仕えする喜びをお与えください。 アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著/岸本綋訳8月6日より引用 )
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