人は神の前で、聖書をよくよく読まなければなりませんが、それには二つの基本的条件があります。一つは、読む人がまず正しくなければなりません。そして、その人は必ず訓練されなければなりません。さらにもう一つ、その方法が正しくなければなりません。何百年も前から、特に宗教改革の時以来、教会の中には、聖書を読むことに関して、比較的良い本が何十種となくあります。これらの本はみな相当よいものです。ただし、どの本にも一つの基本的な欠点があります。それはほかでもない聖書を読む方法にだけ注意して聖書を読む人には注意していないことです。それはちょうど、これらの方法によって聖書を読みさえすれば、だれでもよく読むことができる、というようなものです。ところが多くの人はこれらの方法によって聖書を読んでも、実はよく読むことができないのです。どうしてでしょうか?
それは彼らが、自分がどんな人であるかを忘れているからです。聖書を読むことは方法だけの問題ではありません。さらに、その人がどうであるかの問題でもあるのです。ある人は聖書をよく読むことができます。それは彼らが神の前で学びのある人であるからです。さらに方法が正しくあれば、よく読むのです。もし彼らの方法を人に伝えて、彼らの人となりを伝えるのでないとしたら、結果は多くの人の人となりは正しくありません。ですから彼らの方法を使って聖書を読んだとしても、やはりよく読むことができないのです。
このことは非常に重要です。すなわち聖書を読むには方法が正しいだけでなく、人もまた必ず正しくなければなりません。人が正しく、さらに正当な方法を用いてはじめて、聖書を読むことができるのです。聖書を読む方法が重要なことは間違いありません。良い方法でなかったら、確かによく読めません。しかし、どうしてもまず、わたしたちという人が造り変えられてこそ、はじめて聖書を読むことができるのです。ある一群れの人たちに一つの誤りがあります。彼らはごく少数の人しか聖書を読むことができないと思っています。またもう一群れの人たちは別の誤りをしています。彼らはだれでもみな聖書を読むことができるのだと思っています。
実はこの両方の考え方はどちらも間違いです。ごく少数の人しか聖書を読むことができないのではありません。また、だれでもみな聖書を読むことができるのでもありません。ただある種類の人たちだけが聖書を読むことができるのです。わたしたちはこの種類の人とならなければなりません。そうすればよくよく聖書を読むことができるでしょう。わたしたちは必ず人が先であり、方法は後であることを見なければなりません。人が駄目なら、方法も効果がありません。人が良ければ、あらゆる良い方法がみな用いられます。ある人は方法を重視します。わたしたちも方法を重視します。しかし、わたしたちは決して方法を前面に置きません。方法は第一ではありません。人が第一です。人さえ正しくあれば、その上でわたしたちは聖書を読む幾つかの最もよい方法をすべて持ってきて用いるでしょう。
(『聖書を読む道』ウオッチマン・ニー著の冒頭の文章より抜粋引用。詩篇119篇は聖書が聖書を読む人にとってどんな意味を持つか語り尽くしてやまない。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119・105はその代表のひとつであろう。果たして、私たちは聖書を読むにふさわしい者であろうか。)
2012年8月14日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿